仙台キリシタン殉教


岩井 誠(仙台教区一本杉教会)

仙台市青葉区の広瀬川のたもとに「仙台キリシタン殉教碑」がある。この殉教碑は、岩手県奥州市水沢で捕えられたポルトガル人の宣教師カルヴァリヨ神父と信徒ら9名が、極寒の広瀬川で殉教したことを顕彰するために建立されたもの。

改修された殉教碑

中央にカルヴァリョ神父、両脇に武士と農民、3体の像、製作は、故深沢守三神父。

この殉教碑建設を発案し事業推進を担ったのは当時の「仙台地区壮年連盟」で、今から約45年前(1971年9月)完成した。長年風雨にさらされたこともあり、台座に亀裂が

入るなど傷みが見られた。そこで、「仙台壮年の会」が中心となり、仙台教区の方々に呼び掛けて改修工事を行い、「仙台に来る多くの外国人たちにも、ここを訪ねてもらえたら」との願いから、元の碑の両側に英語、スペイン語、韓国語で刻んだ石碑二つを新設した。

毎年、2月最後の日曜日にこの殉教碑のもとで、「仙台キリシタン殉教祭」が行われる。

「仙台キリシタン殉教録」によると彼らの殉教の様子は次のようであった。

仙台藩主、伊達政宗の時代、 徳川幕府のキリシタン弾圧によって、仙台藩に囚われの身となっていた ディエゴ・カルヴァリョ神父ら9人は、元和(げんな)9年(陰暦)も押し迫った 大晦日(陽歴:1624年2月18日)午後2時頃、広瀬川河畔に連れて来られた。

そこは川岸から4尺(1.3m)ほど離れた所に、2尺(60cm)ほどの深さに水を張った水牢が用意され、皆は着物をはぎ取られ、水牢の中に打ち込まれた一本一本の杭に縛り付けられた。

仙台キリシタン殉教祭

神父は不動の姿勢のまま、祈りの言葉を唱え、皆に絶えず勇気を与えていた。

見物にやってきた異教徒たちは、口々にキリストを捨てろと彼らに叫びかけていた。

この責め苦が3時間以上続き、彼らは池から引き出されたが、苦しみと寒さのため、感覚を失って川岸に倒れた。神父だけは河原にひざまずき、頭を垂れて祈り始めた。

彼らの中の2人は、池から出るやいなや息絶えたが、その人は天を仰ぎ、あたかも“ご公現”を見るかのように「あの方は、どなたですか」と叫ぶとともに、霊は天に帰った。

奉行は、棄教するなら、皆を助けてやろうと神父を説得にかかったが、断固として承知しなかった。

生き残った7人は牢獄に連れ戻され、正月の3日間を過ごしたが、元和10年正月4日、(1624年2月22日)彼らは再び水牢に連れて行かれ、一人ひとり杭に縛り付けられた。

初めは膝まで水につかって立っていたが、無理に座らせられて胸まで水に浸った。群衆は、拷問の責任は 神父にあると、悪口や罵倒を浴びせた。

広瀬川に向かって黙祷。背景に仙台大橋が見える

日暮となり、水が凍り始めた。夜に入り、寒さは厳しさを増し、風は益々烈しく、雪は降り続いていた。最後の時が来たことは誰の目にも明らかであった。

神父の「束の間ですぞ。もう少しで苦しみは無くなりますぞ。」と 愛をもって繰り返し激励する声を 耳にしながら、一人、二人、三人と、次々に息を引き取った。

最後まで残ったマチヤス太郎右衛門は、「神父様、さようなら。私は最後の予感がします。」と言った。「行け、わが子よ。天主の平安のうちに。」という 神父の答えを聞くや、安らかに目を閉じた。それは夜の五つの時(午後8時)であった。

10時間に及ぶ拷問を受けながら、心の中は絶えず愛熱の炎に燃えていた神父の信仰の強さに、異教徒たちさえも驚嘆し、賞賛を禁じ得なかった。

(写真提供:筆者)

 


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