いのちへのケアとキリスト教の核心


田畑邦治(白百合女子大学学長、NPO法人 生と死を考える会副理事長)

1.哲学・教育・ケアの接点を探して

いのちの現場に問われて

今日まで35年余りにわたる私の教職の経験は、ケアの哲学・死生観の教育とキリスト教精神の出会いを探るものであったように思います。私は大学の研究所での事務の仕事を経て、最初の教職の場は、看護系の短期大学でした。そこで、キリスト教学や人間学を担当することとなったのですが、相手は臨床の場で働くことを目指す看護学生でしたから、果たして自分の専門用語が通用するものかどうかについて、いつも問われるばかりでした。

他方、社会活動の場としては、死別体験者の悲しみの分かち合いから発足したNPO法人「生と死を考える会」において、教養講座の講師や会の役員として、こちらもまたある意味で臨床的かつ実践的な人生との関わりの中で、自分の死生観が問われるということを経験してきました。

 

いのちの問題と哲学の使命

哲学・教育・ケアという分野の根源にあるキーワードともいうべきものは、やはり「いのち」であると思います。哲学史の流れからも、20世紀以降の現代哲学は、「現象学」や「生の哲学」や「実存哲学」に代表されるように、人間の現に生きているいのちの事実から出発して人間存在を考えるようになりました。

そういう20世紀西洋哲学の現場に身を置いた日本人哲学者・九鬼周造(1888-1941)は、哲学は決して「乾燥した抽象の学」ではなく、「生の鼓動を聞き、生の身ぶるいを感じる」ことにその本領がある、といった趣旨の発言をしています(九鬼周造「仏蘭西哲学の特徴」、『九鬼周造全集』第3巻、岩波書店、1981年)。

20世紀哲学の中で、私がもっとも刺激を受けた哲学者はエマニュエル・レヴィナス(1906-1995)です。彼の哲学は「他者」の問題に集中していますから、教育やケアを考える上で無視できないのはもちろんですが、これまでの哲学のありかた全般を問いに付すほどの革命的な意義をもっていると思われたのでした。

レヴィナスの難解な哲学を明晰に解説したイギリスの哲学者コリン・デイヴィスは、レヴィナスの哲学は「哲学の企て全体の方位修正」であったとし、次のように言います。

「(レヴィナスにおいて)哲学的テクストの任は、「他者」について語ることではなく、「他者」に声を与え、「他者」の声がそれをかき消すノイズを通してなお聴きとられるような、語法を見いだすために自ら行動することになったのである。……レヴィナスの提示する倫理……そこにあるのは、「他者」の声は聴き取られなければならないという、一つの情熱的な道徳的確信だけである。」(コリン・デイヴィス『レヴィナス序説』p.268‐269)

哲学の本来の姿が、そういう他者の声を聴く語法の発見である、ということは、日本で臨床の哲学の中心的な役割を果たしてきた鷲田清一もまた強調しているところです。哲学はこれまで「語ること」を本業としてきたが、それは正しいことであったか。むしろ「聴くこと」にこそ、哲学が真の力を発揮できる場があるのではないか、と(鷲田清一『「聴く」ことの力―臨床哲学試論』阪急コミュニケーションズ)。

 

生と死の尊厳に背く時代と教育の課題

ところで、一人一人のいのちの声がケアの心で聞き届けられるために、教育の責任は大きいと思います。教育現場は「競争」原理に浸透されて、いのちへのケアの側面がなおざりにされてはいないでしょうか。この問題にいち早く気づいていたアメリカの数学者・教育哲学者であるネル・ノディングスは『学校におけるケアの挑戦―もう一つの教育を求めて』(佐藤学監訳、ゆみる出版)の中で、人間の生存にとって何よりも大切なケアの精神が教育の場で教えられていないことに警鐘を鳴らしたのでした。教育の場にいる私自身、これははっとさせられることでした。

「ケアすることとケアされることは根本的な人間のニーズである。私たちは誰もが他の人からケアされる必要がある。幼いとき、病気のとき、老いたとき、その必要性は緊急かつ、いたるところにある。……(しかし)患者は医療制度の中でケアされていないと感じている。クライアントは福祉制度の中でケアされていないと感じている。老人はそれらの制度が提供する施設の中でケアされていないと感じている。子どもたち、特に青年たちは学校の中でケアされていないと感じている。」(11-12頁)

 

2.いのちの哲学―隠れたるいのち

哲学も教育も、第一義的にまず人間のいのちに向かい合い、そのいのちの声調に傾聴し、いのちのケアへの励ましになるべきだ、という認識は私の中でますます強くなってきました。しかし、この課題が至難なものであることは誰にも明らかなことです。その至難さの前で、諦めずに、理想を追求することができるのは、私にはキリスト教の福音とその伝統を汲む哲学の刺激が何よりの力となっています。キリスト教は何にも増していのちの尊厳とその偉大な完成を伝えるものだからです。

ところで、あまりに頻繁に使われる「いのち」はそれがあまりに多義的であるため、有意義な共通理解は難しいのですが、こと人間のいのちに限定してみるとき、いのちはただ生物学的な要素だけで語りつくされることはできず、一人ひとりの人格・感情・意志など、独特なニュアンスを有するものである、ということが注目されるべきです。いのちはこの意味で、隠れたるものであり、丁重な聴取の心をもった人にだけその内面の秘密を打ち明けてくれる、そういう内的でデリケートなものです。

ミシェル・アンリ(1922‐2002)という哲学者は晩年の名著『キリストの言葉―いのちの現象学』(武藤剛史訳、白水社)の中で、人間のいのちのこうした内面性を重視して、人間のいのちは、外面(世界一般の視野)からは直ちに見ることのできない「心」という情感性(受苦・喜び)を持って生きている存在であり、たんなる「理性」的存在ではない、と繰り返し述べています。

アンリの思想から意識させられることは、われわれは世界内的なものばかりに眼を向けて、他のすべてのものよりもはるかに価値あるはずのこのいのちを忘れ去り、優先順位を逆転させていないか、ということです。

 

3.〈いのち〉とキリスト教

聖書における〈いのち〉

われわれはいのちをまず身体的なものと考える習性を持っていますが、聖書では当然ながらもっと広く高い意味をもっています。ヨハネ福音書では「永遠のいのち」と頻繁に言われますし、それは共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)では「神の国」と同じ意味を持ちます。つまり、人間のいのちは生物学的・医学的意味を超えて、深まりゆくものであるとされています。いのちは神の内に生きているものであり(ルカ20:27‐38ほか)、いのちは単なる器官(モノ)ではない。それは根源的に神(超越)との密接なつながりをもっており、したがって。対象化(モノ化)できない尊厳を有するものです。

 

おわりに―愛によって完成するいのちの神秘

先日、私は通っている教会のミサの中で、当日の典礼が用意してくれた次の祈りに心が惹きつけられました。ミサや礼拝では、聖書の言葉が中心になるのは当然ですが、御言葉の前後に祈られる祈りが、その日の御言葉の神学を短く要約している場合があって、それはとても助けになるものです。

「愛の源である神よ、神と人々を愛し抜かれたキリストを思い起こして祈ります。主の死と復活の神秘にあずかるわたしたちが、その愛の勝利を力強くたたえることができますように。わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。」(奉納祈願)

愛の源である「神」と、その愛を極みまで生きた「キリスト」。そのキリストの死と復活にあずからせていただく「私たち」の人生の目的が「愛の勝利」の「賛美」である、と。

 


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