「おせっきょう」ではないミサの説教 答五郎……さて、1週間休んでしまったけれど、みんな元気だったかな。「ことばの典礼」を考えるシリーズも11回目になる。10回目まではおもに「聖書朗読」を考えてきたけれど、今回は、少し先へ Continue reading

「おせっきょう」ではないミサの説教 答五郎……さて、1週間休んでしまったけれど、みんな元気だったかな。「ことばの典礼」を考えるシリーズも11回目になる。10回目まではおもに「聖書朗読」を考えてきたけれど、今回は、少し先へ Continue reading
末森英機(ミュージシャン) たとえば、イチジクの、ブドウの、ウリーブの、ナツメの、リンゴの木は、やがて、しおれ、崩れ落ちて、そうして埃になる。老いた旅人は、くたびれ果てて、歌うちからもなくして、まなざしも貧しげ、うつむい Continue reading
齋藤克弘 西ローマ帝国では中央集権制が衰退して通信網が弱体化すると教会も各地で固有の典礼や聖歌が興隆してきました。また、早くから宣教が進んでいたケルト人の居住地域(現在のイギリスやイングランド)でも特有のキリスト教文化や Continue reading
末森英機(ミュージシャン) わたしはつみびとの頭(かしら)である、とサウロは言う。ぼくはつみの頭(かんむり)と言おう。誇らしげに、しかも声高らかに、叫んでみよう。罪はわたしの冠である。痕跡はしたたり落ちる血である。数えき Continue reading
福音朗読が頂点である意味 答五郎…… 「ことばの典礼」のことを考えてきて、もはや10回目だ。ずっと、聖書朗読に関係するところを見てきているけれど、この全体の流れはどう見えているかな。 &nbs Continue reading
末森英機(ミュージシャン) あなたはそれを、奇妙な病と呼べるのだろうか。ほかのすべてのものがなくても、やっていけると、みているのだろうか。信仰は全能で、口にあふれる祈りの前に、自然の力もそれを支配する兆しも、すべて萎縮し Continue reading
詩編は架け橋……聖書朗読の配分の中で 答五郎 ……「ことばの典礼」のことを考えてきてもう9回目だね。前回は、詩編について、それが神との対話、つまり祈りとして意味のあることばだということを考え始めたね。 &n Continue reading
齋藤克弘 教会の中でもグレゴリオ聖歌はグレゴリオ1世教皇の時代、いや、それ以前の昔からローマの教会で歌われてきた聖歌だと考えられていた時代が長くありました。しかし、近年の研究によってグレゴリオ聖歌はかなり複雑な歴史を歩 Continue reading
末森英機(ミュージシャン) 冬眠して、おおいなる春を待ち望むのは、預言者の言葉たち。ひとの暦の上の神の暦。ミルクと蜜が流れる河をつくる約束の地へ、パレスチナへの道には、預言者たちの言葉が敷き詰められている。奴隷に生まれた Continue reading
今年は、宗教改革500年にあたり、ルターに始まるあの運動が盛んに回顧され論じられている。この歴史的反省は、やがては、近代カトリック教会の揺籃といえるトリエント公会議にまで広げられていくであろう。更新された史料状況に基づく Continue reading
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