こころを開く絵本の世界 13


山本潤子(絵本セラピスト)

 

アイ・メッセージ

 相談業務を続けていると相談者さんの共通点に気が付きます。自分の気持ちを私に話してくれるのですが、私にはよく理解できても、それが相手には届かない、言い合いになったり揚げ足取られたり、もっと拗れたりするというのです。「相手を主語にしないで今言った通りの言葉で伝えてください」と言うと「?」という表情になります。なんとかして欲しい、相手を変えたい感情が強すぎて言葉が武器になり、尋問のようになってしまうのです。責められたら逃げるか攻撃するかのどちらかになってしまうのは仕方ありません。

 自分の感情を言葉で伝える時のヒントになるのではないかと、まだまだ絵本を心理学と結びつけていた頃、相談者さんに紹介していた絵本があります。

 

『がまんのケーキ』 
かがくいひろし:ぶん、え、教育画劇

 『こいたろう』はテーブルの上にある苺のホールケーキを前によだれを垂らし、『かめぞう』に食べようと訴えています。かめぞうは年長者らしく「ならぬぞ、けろこさんがまだ帰ってこぬ!」と諭しました。どうしても我慢できないこいたろうは一流営業マンの如く見事なプレゼンでケーキの美味しさを語り、ついにかめぞうは「たべようかのう!」と同意するのでした。

 台所にナイフとフォークを取りに行った二人は冷蔵庫に貼ってあるメッセージに目を止めました。「かめぞうさん、こいたろうさん、美味しい紅茶を買ってきます。一緒に食べようね!」。読んだ二人はうな垂れ先に食べようとしたことを反省し、けろこさんの帰りを待ちました。「ただいま〜」と帰って来たけろこさんは、それはそれは魅力的な瞳の持ち主でした。

 

 登場する三人の個性がはっきりわかる絵と物語の展開に吸い込まれるようです。ショートコントのような分かりやすいオチですが、じんわりと湧き上がる喜びの感情をけろこさんの瞳が全て見通しているように思えました。

 けろこさんのメッセージを読んで、なぜ二人は食べることを思い止まったのでしょうか。ワークショップで問いかけると面白い意見が出てきます。

「けろこさんが怖いから」

「けろこさんが魅力的だから」

「美味しい紅茶と一緒に食べたいから」

なるほどと思いますがうな垂れるほど反省する理由にはなりません。

 

 けろこさんのメッセージにはとても大切な要素がありました。それは心理学用語では『アイ・メッセージ』という自分(英語でI)の感情を言葉で伝える時に使って欲しい考え方です。つまり、私の感情なので私を主語にした表現です。「わたしはあなたたちと一緒にケーキを食べたい」という気持ちを、けろこさんはそのまま書き綴っていました。「美味しい紅茶を買ってくるから、あなたたちは絶対に先に食べないでね!」と相手の行動に釘を刺すようなメッセージだったら、「バレないようにクリームをちょっと舐めちゃおう!」という展開もあったかもしれません。

 

 最新の心理学を学んでいる時、このアイ・メッセージを日常生活に取り入れるという課題がありました。当時私は娘と一緒に住んでいましたが、息子は遠方の寮生活で長期休暇以外は家にはいませんでした。関係が近ければ近いほど分かってくれているだろうと自分の感情を言葉にせず、娘の言動にいきなり言及することも多く、ぶつかってしまうことも度々ありました。「アイ・メッセージ、アイ・メッセージ」と、呪文のように無言で唱え意識していてもなかなか自分の感情を言葉にすることができませんでした。頭では簡単に理解できても実践は難しいものです。

 そんなある日、息子が帰省しました。家にいる時くらい好きなものを作ってあげようと声を掛けると「オレ、母さんの作るチャーハン大好きなんだ!」というではありませんか。

美味しいと褒められたら嬉しいに決まっていますが、それ以上に息子の言葉は私の胸に届きました。それまで意識していなかったのですが、小学生の時も仕事で帰りの遅い私に「早く帰ってきて」ではなく、「ベランダで母さんの帰りを待っていると悲しくなるんだよね」と言われたことがありました。忘れることのできない言葉です。息子はいつも自分の感情を言葉にしていることに初めて気付いたのです。

 

 私の体験ではアイ・メッセージは言われた人も言った人も凝り固まっている心をゆっくりほぐします。それまで私はアイメッセージで伝えることの大切さを何百人もの相談者さんに語りました。きっと頭で理解し数学の公式のように伝えていたことでしょう。

こうしてキーボードを叩きながらも自分の感情が溢れてきます。息子との体験と絵本から受け取ったメッセージが私の言葉にも醸し出されることを信じて、これからも絵と言葉の世界を綴りたいと思います。

 

季節の絵本

『おにたのぼうし』 
文:あまんきみこ、絵:いわさきちひろ、ポプラ社

 

 物置小屋の天井に住みついていた黒鬼の子ども『おにた』は、人間に見つからないように気をつけながら陰で役に立つことをしていました。良い鬼もいるのです。

 節分の夜、豆まきが始まると麦わら帽子で角を隠し粉雪の降る外へ飛び出しました。どこか良い家はないかと探しますが柊が飾ってあって入ることができないのです。しばらくすると豆の匂いもしない柊も飾ってない、豆まきをしない家がありました。

 その家では女の子が病気の母親の看病をしていました。お腹が空いてないかと心配する母親に女の子は赤ご飯とウグイス豆を食べた、知らない男の子が節分のご馳走が余って持ってきてくれたと嘘を言いました。

 天井の梁でその様子を見ていたおにたは外へ飛び出し、女の子が言った通りのご馳走を持ってきました。女の子はご馳走を食べながら「豆まき、したいなあ」と言いました。その言葉におにたはそっといなくなり、女の子は静かな豆まきをしました。

 

 おにたは最初の物置小屋も女の子の家も、どんなにか理不尽な気持ちで出たことでしょう。困っている人間を陰で助けてあげているのに、豆まきされたらその家にはいられないのです。ご馳走を持って行った時、帽子を脱いで女の子に本当のことを打ち明けたら受け入れてくれたのではないかと、やり場のない悲しみが消えませんでした。ビー玉のようなまん丸いおにたの瞳に、私はこころを見透かされているような気持ちになりました。

 

ところで、女の子はおにたのことを神様だと考えました。そして「だから、おかあさんだって、もうすぐよくなるわ」という前向きな気持ちで豆をまいたのです。おにたの行為は報われなかったかもしれませんが、女の子は空腹を満たしただけでなく、希望を持つことができました。食べ物はなくなりますが希望は未来を照らします。神様が来たという出来事は女の子の人生を照らし続けたのではないでしょうか。

 

 今から50年以上前に書かれた絵本です。節分の行事の豆まき、私が子どもの頃は何故か落花生をまいていました。鬼がどんなものかも分からず、「ふくはーうち、おにはーそと」と声を上げながらまくのですが、私は家族といてもそのセリフが恥ずかしくて、早く終わればいいのにと思う子どもでした。まいた落花生は拾って殻を外せば食べることができます。食べるならまかなければ良いのにとも思いました。

百科事典を使うようになって節分の豆まきは、「季節の変わり目に起こりがちな病気や災害を鬼に見たて厄を払い新年の幸せを願う行事」だと知りました。私の想像していた鬼とは大違いです。桃太郎の鬼も節分の鬼もごちゃ混ぜになっていました。

 

鬼とは一体何の象徴・比喩なのでしょう。その時代や状況によって鬼の正体も違ってくるのかもしれません。自分の内にある言葉にできないようなわだかまりや後悔を鬼とするならば、思い切って「おにはーそと!」と叫んでみたいものです。出した後にはきっと福がやってくるでしょう。「ふくはーうち、おにはーそと」の順番ではなく、まず先に鬼を出すだけで良いのかもしれませんね。

(ここでご紹介した絵本を購入したい方は、ぜひ絵本の画像をクリックしてください。購入サイトに移行します)

 

東京理科大学理学部数学科卒業。国家公務員として勤務するも相次ぐ家族の喪失体験から「心と体」の関係を学び、1997年から相談業務を開始。2010年から絵本メンタルセラピーの概念を構築。

https://ehon-heart.com/about/


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