主は皆さんとともに
問次郎……答五郎さん、実は、この間、カトリックとは違うある教会の礼拝を見学させてもらってきたのです。するとミサの初めの対話句と似たものがあるなぁと思ったのですが、カトリック教会で「また司祭とともに」と言うところが「またあなたとともに」と唱えられていました。
答五郎……それは、熱心というか。ただ、たくさん見学しすぎると混乱するかもしれないよ。でも、勉強のきっかけが増えるのはよいことかもしれないけれどね。「また司祭とともに」とか「またあなたとともに」は代表的な例かもしれない。でも、そんなに大きな違いに聞こえるだろうか。
美沙………それほど違いがあるようには思いません。司祭が「……皆さんとともに」と言うのに答えて、信徒たちが司祭に向かって言うのですから、どちらも同じ意味と感じるのですが……。
答五郎……そう感じてもらえたら、それで問題ないのだけれどね。ただ、同じようなのに違うから気になるというのもわかる。種明かしをすると『ミサ典礼書』の原文では、「また司祭とともに」と訳されている句は、直訳すれば「またあなたの霊(=スピリトゥス)とともに」なのだよ。聖書的な表現で、それが古代教会の典礼式文に入っていって今に受け継がれているのだ。
問次郎……聖書にはどのような例があるのですか。
答五郎……こういったあいさつの対話句は、前回見たように、使徒の手紙、特にパウロの手紙の表現から来ている。ここもそうだよ。たとえば、「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように」(ガラテヤ6 ・18)とか「主があなたの霊と共にいてくださるように。恵みがあなたがたと共にあるように」(二テモテ4 ・22)とかね。「あなた(がた)とともに」と「あなた(がた)の霊とともに」がほぼ同じ意味で言われているように感じられる。
美沙………印象なのですが、そういう表現は、「あなた自身とともに」とか「あなたがた自身とともに」といった強調がこもったものなのではないでしょうか。
答五郎……そうなのかもしれないが、聖書で「霊」とか「魂」とか「心」と訳される、元のヘブライ語のニュアンスをたどるのは、なかなか難しいだろうと思うよ。
問次郎……日本語だと「あなた自身」とか「御身」とか「身」という語がつくのは、「霊」などの表現と比べると面白いですね。
答五郎……そうだね。ともかくヘブライ語的言い方を背景にした表現がパウロの手紙のギリシア語表現となり、それがラテン語に訳され、典礼式文にまで受け継がれているというのが実情だ。現代語に訳すとき、英語なら「あなたの霊」を「あなた」と同じと解釈して「またあなたとともに」とすることが多く、その影響を受けて日本でもそんな式文が出ている。
問次郎……それなら、日本のカトリック教会で「また司祭とともに」としているのはなぜでしょうか。
答五郎……たしかにね。これは日本語のミサ典礼書が作られるときの苦心の産物だったらしいよ。それは、「あなたとともに」とする簡単な方向をあえて歩まず、原文の「あなたの霊とともに」の「霊」の意味を最大限尊重しようとした努力だったらしい。
問次郎……「またあなたの霊とともに」ではいけないと考えたのですか。
答五郎……われわれの日常的な語感から「霊」というのがわかりにくいと思ったのかもしれない。「霊」と聞いて何と思う。 幽霊? 亡霊? 背後霊? ……だろうか。
問次郎……ミサで言われているのですから、そんなことは思いません。ただ、よくわかりませんね。
美沙………霊とは何かと考えてしまいます。何か深いものを意味しているだろうという感じはあります。
答五郎……そう、その深いものを日本のミサ典礼書では、司祭の働きを支え導く神の霊のことと解釈したらしい。これも古代教会の教父で、そのように解釈した人がいて、それも一部では尊重されてきたらしい。ここは、「司祭」といっても「祭儀を司式する人やその働き」を意味するらしい。司教が司式する場合でも、わざわざ「また司教とともに」と言い換えないのだよ。
問次郎……日本の典礼書には、そんなに難しい解釈が含まれていたのですか。
答五郎……深い解釈だという評価もあれば、凝りすぎだという評価もあるようだ。ただ、この対話句に関しては、何が大事かをもう一度、考える必要があるのではないかな。
問次郎……と言いますと。
答五郎……この対話句は、「皆さん(あなたがた)とともに。」「またあなた(司祭)とともに。」というところの表現がどうのこうのというよりも、「主が…ともにいる」ということが重要だということさ。「主がともにいる」ということを告げているのがこの対話句の肝だろう。
問次郎……使徒的な祝福というものでしたね。
答五郎……そう、主がいるということを確認し合い、そこにあふれる祝福をここで分かち合っているのではないかな。だから、司祭が告げるだけではなく、会衆も同じ内容を返していることになる。信徒の側からも祝福を宣言しているのだよ。
美沙………それで、この対話句には自然と力がこもるのですね。
(つづく)
(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)