オリンピックと学徒出陣


古谷 章

私は前回1964年の東京オリンピックを中学一年生の時に迎えた。ちょうど学校のクラブ活動でバレーボールを始めたり、英語を習い始めて海外のことにも関心を持ち始めたり、まさに思春期のただなかにあった。だから某首相ならずとも、女子バレーボールや男子体操の金メダル獲得、マラソンの円谷選手の活躍に心を弾ませた覚えがある。

そんな中、忘れられない一つの発言がおぼろげではあるがずっと心に残っていた。それは開会式の日の夜、NHKのラジオかテレビの番組であるアナウンサーが熱を込めて次のように語っていたことだ。

今日の国立競技場での選手団の入場行進を見ていて21年前(1943年)の10月21日の学徒出陣の壮行会を思い出した。当時は神宮外苑競技場と称していたが、行進した400mトラックは国際規格に則って作られているのでおいそれと変更はできないはずだ。だからオリンピックの選手団は学徒出陣の学生たちと全く同じところを行進したのだ。そう考えると「戦争は絶対にしてはいけない、スポーツのできる平和な世の中を守り抜かなければならない」と思わずにはいられなかった。

いくつものオリンピックのシーンが印象に残っている中でこの言葉を忘れられずに今に至っていたのだが、雑誌「スポーツゴジラ(第28号)」(2015年9月刊)にアテネオリンピックの時の「栄光への架け橋だ」の放送で有名な刈屋富士雄アナウンサーの講演録が載っていた。その一部、学徒出陣に関する部分の概略は次のようなものだ。

学徒出陣の壮行会の実況中継は当時のNHKのエーススポーツアナウンサーと言われた和田信賢氏がするはずだったが、すでに日本の敗色が濃いことを知っていた和田氏は、学生まで徴兵せざるを得ないほどに戦況の悪化していることと併せて放送すべきと主張したために上司とぶつかり担当を外されてしまった。そして当日の朝、若手の志村正順氏が急きょ実況放送をすることになった。志村氏は和田氏が深酒による体調不良だからとしか聞かされず、そのことに疑いを持たないまま歴史に残る名実況で切り抜け、その後はNHKの看板スポーツアナウンサーへと成長する。一方、和田氏は体調を崩して存在感を失っていく。そんなある時、志村氏は知人から和田氏の降板の事情を教えられてショックを受け、うつ病を患ってNHKを退職してしまう。その志村氏が久しぶりに表舞台に登場したのは亡くなる2年前の2005年、野球殿堂入りの祝賀会の時だった。あいさつに立った志村氏はそれまでの沈黙を破って学徒出陣の壮行会以来の真相を語り、最後は涙ながらに「NHKのスポーツアナウンサーは日本人を戦争に送り出す中継をしてはならない。国民のために放送するのだ」と語った。

秩父宮ラグビー場敷地内にある「出陣学徒壮行の地」の碑(江戸村のとくぞう - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=66761769による)

和田氏は壮行会の一件以来、それまで以上に深酒をするようになって体調を崩し、病をおして派遣されたヘルシンキオリンピック(1952年)の帰路、パリで客死してしまう。40歳の若さだった。志村氏は2007年に94歳で亡くなったが人生の後半はうつ病を発病して「隠遁生活」だったという。ともに一見華やかなNHKのアナウンサーではあったが、戦争によってかき回されてしまった人生だったのだろうか。

さて今回のオリンピック。誘致に当たって「東京の夏はスポーツに最適なシーズンだ」「福島の汚染水は完全にコントロールされている」などと世界中に大嘘をついて選ばれた。その後は国立競技場の設計問題、エンブレムの盗作疑惑、招致活動の買収疑惑、人権意識どころか知性や常識のかけらもない組織委員会。様々な問題を抱えた中でコロナ禍を案じる国民の大多数の声を無視しての強行開催だ。

開催前は反対の論陣を張っていたマスコミも、いざ競技が始まると「応援」「感動」のオンパレードである。「戦争に送り出す中継」とまではいわないが、状況を客観視しない報道ではないか。かつて無謀な戦争に突き進んだ時のような政府に踊らされたマスコミによる世論誘導と言わざるを得ない。「同じ過ち」を繰り返しているように思えてならない。

 


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