あなたが宣教師 マタイの福音書28章19〜20節


佐藤真理子

ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。

(マタイ28:19〜20)

 500年前、宗教改革者達は万人祭司という言葉を主張しました。しかし、制度としての教会の在り方は非常に強固なものだったので、文字通りそれを実行するのは非常に難しく、今なお能動的にキリストを伝える役割と受動的にそれを受け取る側の役割というものは続いています。

 もちろん一人ひとり役割があるので、皆に伝える働きをするため特定の人が聖書について深く学ぶ時間を多く持つことにも意味があります。

 しかし、献身を決意し神学校で学びをし、教会で奉仕してから、私は聖職というものについて多くのことを考えさせられるようになりました。まず、当たり前ですが、教職者や聖職者、つまり牧師や司祭は同じ人間であるということです。人には皆弱さも罪もあります。しかし現状牧師が人間として信徒を頼り、パーソナルな相談をするのはなかなか難しい状況があります。どうしても聖職者が信徒と対等な関係を築くのは難しく、教会には、あくまでも教える立場と教えられる立場という関係性を崩せないものがあるのです。

 また、神学や聖書学を学べば聖書について理解できるかというと、そうでもないということも神学校やその前に神学を学んでいた経験から感じる面がありました。勿論無意味ではありません。時間をとって聖書と向き合うことができることや、原語や時代背景や様々な解釈を学ぶことが聖書理解の助けになることも大いにあります。しかし時にはそのようにして得た知識が素直に信じることの妨げになることもあります。聖書が「聖書」として現在私たちの手元にあるということに神様の働きを認める必要があるのだと思います。

 このようなことから、聖書の神髄というか、聖書理解において最も大切な、書かれた神様の意図は、勉強して得られるというものではないのだと私は感じました。

 不思議なことに、私が聖書と親しくなったと感じたのは神学校を出た後のことです。聖書が本当に私を助ける言葉を与えてくれると心から感じて読むようになってから、繰り返し聖書全体を読むようになりました。そして聖書全体を読むほどに聖書の細かな部分も深く理解することができるような気がしました。聖書自身の伝えたい意図、つまり「神は救い主としてキリストを送り、神は愛である。」ということが全編を通して語られているのです。論争は「議論や言葉の争いをする病気」としてパウロが批判していることですが、ある一点の聖書箇所が独り歩きして多くの論争を引き起こすことは多くあります。また多くの場合その論拠を特定の聖書箇所や聖書以外のものに求めるので、情報の偏りから確証バイアスが働き余計に分裂は加速します。ほかでもない聖書全体によって理解することで、そういった問題を回避することができます。全体を通して預言の成就がなされ不思議な一貫性があるのは、まさしく神の働きにより書かれたものだからです。聖書は全て大切なことが書かれたものですが一言一句偶像化する必要性も合理的に理解する必要もありません。手紙はあくまで特定の人物が特定の時代に特定の場所なり人間なりに書いたものですし、歴史書は人が編纂した歴史書です。また啓示なので人の理解を超えた内容もあります。だからこそ読み手がより正確な真理を把握できるよう、重要な出来事には複数の記録があり、大切なことは何度も繰り返し書かれます。全体を読むとそのことに気付き、重要な内容は確実に受け取れるはずです。聖書自身が聖書の最良の注解書なのです。

また、もう一点聖書理解において私の心に響いたのはジョージ・ミュラーの次の言葉です。

 

一九二八年のことでした。私は当時、ハックニィーに住んでいました。愛する一人の兄弟が私のところに来て、聖書の理解を聖霊が助けてくださる、というのです。この兄弟は霊的に成熟した方でした。

 そこで私は言いました。

「それが主の計画なら一つ試してみよう。祈りを捧げ、注意深く聖書を読み、さらに黙想し、聖霊がどれだけ助けてくださるのか、見てみることにしよう。」

 私は自分の言った言葉をさっそく実行しました。自室に戻ると内側から鍵を掛けました。そして椅子に聖書を載せると、その椅子にひざまずいたのです。こうして祈りと御言葉の黙想の中に何時間かが過ぎていきました。確信をもっていうことができるのですが、このようにして過ごした三時間で学んだことの方が、それまでの数ヶ月を通して学んだことよりも多かったのです。このように、私は聖霊の教えを受けることができました。

 この体験を通して得た霊的祝福を、言葉で十分に表現することはできません。この三時間、私は聖霊によって祈り、それまで以上に聖霊の力に信頼していたのです。

(ジョージ・ミュラー『祈りの力』マルコーシュ・パブリケーション2012年、74〜75頁)

聖書は神が人の手を通して書いた啓示の書です。著者である神の意図は、聖霊との関わりによって私たちに伝わります。私も、祈りの中で、またふとした拍子に神様の働きだと思えることで長年不思議だった聖書箇所が腑に落ちることがあります。聖霊は聖書の最大の教師なのです。

 つまり、聖書の理解において与えられている能力や機会は、神の御前において皆平等なのです。勿論聖職者の言葉が聖書理解の助けになることはたくさんあるのですが、本当に大事なことは神様が直接一人一人に教えてくださいます。

 だからこそ、宣教することは、だれか特定の人の役割ではないといえます。神の御前には皆同じ人間です。勿論現在の教会の中で役割分担はありますが、誰もが神を伝えることができるのです。寧ろ、教会の外で働きの場を持っている人こそ、世の人に神を伝える機会は多くあります。無理やり話さなくても、祈っていればあなたの周りの人が信仰について尋ねてくれるかもしれません。彼らのための祈りや愛を体現する態度によって、宣教の機会は神様の方から与えてくださいます。

 パウロに非常に大きなインパクトを与えた殉教者に、ステパノがいます。彼は大胆に神様を伝える説教をしながら死にました。しかし、ステパノは祭司ではなく教会の料理係でした。まだコンスタンティヌス帝などにより教会が制度化されていく前、初代教会時代では、宣教の働きを誰もがしていたのです。

 だからこそ、自信をもって一人一人が他者に対してキリストを示す役割を担ってほしいと思います。信じる人は皆、その人が教会そのものであり、その人自身がキリストの弟子なのです。福音の担い手として、今日、遣わされた場所でキリストの光を輝かせて歩んでいきましょう。

 

佐藤真理子(さとう・まりこ)
東洋福音教団沼津泉キリスト教会所属。上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
ホームページ:Faith Hope Love


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