新型コロナウイルスの感染症が拡大し、「緊急事態宣言」が発出されている。ゴールデンウイークも、自粛期間で終わり、まだ宣言は延長されている。
飲食の場が感染する確率が高いとされ、特に「酒」を飲むことがいけないとされた。酒を飲むと意気が上がり、マスクをはずして会話がはずむからとのことだ。会話がはずむと口から飛沫が大量に出て、周囲に感染が及ぶという。だから「酒」を飲んではいけない。まったく、♪酒は涙か溜息か……歌じゃあないけれど、気分は滅入るばかりである。
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酒はコミュニケーションを豊かにする、とぼくは思う。そこで、『講座・コミュニケーション4 大衆文化の創造』(江藤文夫/鶴見俊輔/山本明編 研究社 1973年)に掲載されている天野祐吉さんが書かれた「サントリー宣伝部―時代を広告する―」を読み直してみた。
天野さんは、1961年の朝日新聞にのった広告を紹介する。
トリスを飲んで
「人間」らしくやりたいナ
「人間」なんだからナ
このころ、レジャーブームと言われた時代である。
1950年代の終わりから60年代の初頭にかけては、“消費革命”のさなかにあり、それは時代のテーマだったが、アメリカ文化の直輸入だった。しかしトリス文化はアメリカニズムとは別の軸で成立する独自性を持っていたのだ。
天野さんは「広告は生活批評である」という。そして
生産者が伝えたい“商品情報”は、それ自身では、人びとの生活体系の中に商品を位置づける役割を果しえない。その商品を受け入れることによって、日常生活がどう組みかわり得るか。そんな生活つくりかえの提案(生活批評)を媒介にすることによって、商品情報ははじめて、日々の暮らしのあるようにかかわる“生活情報”となる」
トリスの「『人間』らしくやりたいナ」も批評精神から出たものであった。
「アイ・ジョージです。トリスをどうぞ!」(62年)
「夜、来たる。オレ、寝る。寝酒、飲む。眼、とける」(64年)
「野球中継がスポンサーの御好意もなく途中で打ちきられても、だな 腹をたてるなよ! 紳士ならや野球通なら 思いをこめてトリスを飲もう! 頭のなかで自分の野球を組みたてよう 勝利を信じてトリスを飲もう!」(66年)
「東西東西! ご近所お騒がせして申しわけございません。世の中乱れております。申しわけございません。トリスでございます。うますぎて申しわけございません。トリスでございます。トリスでございます」(67年)
こうしたキャッチコピーにある批評精神を、ぼくらは持っているのだろうか。
海外旅行など“夢のまた夢”の時代に「が、夢はでっかいほうがいい。当たらなくてモトモトだ。トリスを飲んで世界へ出よう。おや、それにしても、ハワイはHaWaiiと書くんだったか……」こんな形で書くことが、レジャーブームとは言っても、庶民感覚とはかけはなれているというひとつの批評になり得ているのだと天野さんは書く。サントリー宣伝部にとって「広告は批評」であったという。
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天野さんの文章はまだまだ続くが、ぼくがとらえたいのはこの「批評精神」である。「そんな生活つくりかえの提案(生活批評)を媒介にすることによって、商品情報ははじめて、日々の暮らしのあるようにかかわる“生活情報”となる」というところの「生活批評」をぼくたちはしてきていたのだろうか。
かつて、糸井重里さんは「おいしい生活」というキャッチコピーを書いた。ぼくにはどうもそれが腑に落ちなかった。そこにも糸井さん流の批評があったのだろうが。ぼくは江藤文夫さんにそこを聞いてみた。江藤さんから「それなら、『おいしい、生活』と句読点を付けて考えてみなさい」と言われた。
いまこの句読点を考えている。
60年代から時代はすでに半世紀以上も過ぎているが、時代のパラダイムはコロナ禍によってもたらされ、ぼくらに「生活批評」を問うていると思う。
イエス・キリストは、常に「批評精神」を持って人びとへ説いていかれたではないか。それを新たなこころをして感じ取らねばならない、とぼくは考えている。
イエスキリストは比評精神をって人々にはなされたのですか?
そういう尖り方で、キリストが世の中を見ていたのだとは思いません。
キリストは真っ直ぐにわたしたちを見ていたのだと、信じております。
愛あるキリストに習う の精神で学生時代から過ごしてきました。
聖書は、読むというより キリストの言葉を聞いて キリストの愛を感じておりました。
ところで、今回の連載が、お酒のお話 になっていたので、と興味を持って読んでしまいました。 これからも amorの連載が、私たちの毎日を彩る暖かい内容であることを願っております。
不躾な感想を投稿いたしまして、失礼いたしました。