蘇られたキリスト ルカの福音書24章27~34節


佐藤真理子

それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。
彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。
彼らが、「一緒にお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。
そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。
すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」
二人はただちに立ち上がり、エルサレムに戻った。すると、十一人とその仲間が集まって、「本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された」と話していた。

(ルカの福音書24:27~34)

主のご復活おめでとうございます!

私は小さいころから、エマオへの道行きを描いた有名な絵が大好きでした。おそらく目にしたことのあるクリスチャンも多いと思いますが、森の中の道を二人の弟子とイエス様が歩く後姿が描かれた絵です。幼い頃、福音をまだ把握する前から、この絵をみると希望が湧いてきて、胸が熱くなりました。

福音書の終わりはどれも、キリストの十字架刑の後、主の復活が起こったことを語っています。キリストは死ななかったのです。死を経て蘇ったのです。素晴らしいハッピーエンドです。このハッピーエンドは他人事ではなく、私たちの物語へと続きます。なぜなら、同じ復活の主が今生きていて、エマオで主と出会った人々と同じく、私たちも主と語り合うことができるからです。

先日、辛いことがあったとき、眠ることができず聖書を夜な夜な読んでいました。ちょうど読んでいたのは使徒の働き(使徒言行録)でした。私の心はなかなか晴れ晴れとせず安心して布団に入る気が起きなかったのですが、突然一節から目が離せなくなりました。

こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり築き上げられて平安を得た。主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け、信者の数が増えていった。

(使徒9:31)

それを読んだとき、突然その状況が目に浮かぶような気がしました。そしてまさにこの御言葉通り2千年前に広がっていった福音の結果によって、私はいまキリストを信じているのだと思いました。この節を読んだとき、なぜ今自分が聖書を手にしているのか改めて考えました。原語の底本が翻訳され一冊の日本語の聖書となっていますが、そのギリシャ語とヘブライ語の底本が一冊の本になるには多くの工程が必要なのです。はじめに聖書を記した人がいて、それを後代に伝えるために写す人がいて……と、2千年以上の間、何世紀にもわたり多くの写本が残されたことで、今私たちは聖書を読むことができるのです。

数えきれないほどの写本の取捨選択によって、聖書の原語の底本が出来上がり、それが翻訳されたものが私たちの手元にあります。また、新約であっても同時代に書かれた書物の写本は殆ど残っていません。例えばカエサルの「ガリア戦記」は9~10ほどの写本、タキトゥスの著作などもさほど変わらない程度ですが、新約聖書の写本はギリシャ語だけで5300以上あります。断片含めての数ですが、桁違いです。

いかに多くの人が強い意志と情熱によってキリストの出来事を記録し脈々と伝えようとしてきたかが分かります。

聖書は、紛れもなく事実が記されているのです。まだ印刷技術もビデオもレコーダーもなかった時代、克明に出来事を記録し、人々に伝えるために書かれたのが、数えきれない写本なのです。

このようなことが頭を駆け巡り、まさしく使徒9:31のみことばが事実なのだと改めて私は認識しました。勿論聖書に書かれたことをずっと信じて生きてきましたが、改めて正真正銘事実なのだと心に刻まれました。

そう思うと、心の傷にさっと光が入り一瞬で癒されたような感覚になり、落ち着いて眠りにつくことができました。生きているキリストが、私に「本当に聖書を信じるように」と語ってくださったのだと思います。

生きていると全てが順風満帆とはいきません。しかし、困難な経験は生けるキリストをはっきりと現す契機にもなります。私が励ましを受ける説教者は、皆人一倍大変な過去を持っています。ジョイス・マイヤーは幼少期ずっと実親からの性的虐待の被害を受けてきました。またクリスティン・ケインという同じく女性の説教者は養子として育ちました。彼女は大人になってからその事実を知り、受け入れるのがとても困難だったと言います。彼女もまたいろいろな人から虐待を受けた過去があります。しかし両者ともに、キリストという光によってそれを乗り越えた人物であり、世界中にキリストを宣べ伝える声を響かせています。

また、その人一倍辛い経験こそが、彼女たちの言葉に重みを持たせるのです。

キリスト者がキリストに心を寄せることができるのも、キリストが人の苦しみを知り尽くし実際に体験し、それを乗り越えた方だからだと思います。

誰でも険しい道は通りたくないものですが、それを経験することで、他の人を励ますことができ、周りの人の希望の源として生きることができるようになるのです。

第二次世界大戦中ユダヤ人収容所で過ごし家族を失ったコーリー・テン・ブームもまた素晴らしい宣教者ですが、彼女は生前このような言葉を残しています。

「私の生涯は、ただ神さまと私との間で織り上げられていく織物です。私が色を選ぶのではありません。主が変わることなく働いてくださいます。主はしばしば悲しみを織り込まれ、私は愚かな誇りを織り込みます。主は表を見ておられるのに、私は裏ばかり見ているからです。織り機が止まって、静かになるまでは、神さまが布を広げて、その理由を教えられることもありません。暗い色の糸も、熟練者の手にかかるならば、金や銀と同じように、その計画の中で、どうしてもなくてはならない、必要なものとなるのです。」

(コーリー・テン・ブーム著、錦織寛訳『日ごと新たに』日本ホーリネス教団、2009年、44頁)

冒頭に取り上げた聖書箇所で、話している相手がキリストだと悟った瞬間、キリストが見えなくなることは深い示唆に富んでいると思います。

目に見えないこと、まだ見えないものを見えるようにして確信するのが信仰だからです。

何が起こっているのかわからない時、私たちに見えているのは織物の裏側かもしれません。しかし時が来て、私たちの人生という織物をさっと裏返すと、本当に美しい模様が神によって描かれていたのだと知る日が、必ず来ます。

 

佐藤真理子(さとう・まりこ)
東洋福音教団沼津泉キリスト教会所属。上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
ホームページ:Faith Hope Love

 


蘇られたキリスト ルカの福音書24章27~34節” への2件のフィードバック

  1. 主のご復活おめでとうございます。
    確信に溢れる文章ですね。
    楽しく読ませて頂きました。
    ありがとうございます。

    • ご復活おめでとうございます。読んでくださってありがとうございます^^嬉しいです。主が生きておられることは、最高の希望ですね!

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