戦争を見据える場所


竹田恵津子

1937年盧溝橋事件以降本格化した日中戦争の中で、「20ヶ年百万戸送出計画」という国策に応えて長野県の南部は全国で最も多くの開拓団民(農業移民)を中国東北部に送り出した。

南アルプスのふもとの下伊那郡阿智村には、この過去の歴史資料の記録・保存・展示・研究の拠点となると同時に、平和・共生・友好の創造へのメッセージを発信する拠点となる「満蒙開拓平和記念館」(2013年開館、民間による運営)がある。あえて中国東北部への侵略に使われた「満蒙開拓」という歴史上の負の言葉を残しているのは、「前時不忘、後事之師」(前時を忘れず、後事の教訓とする)の決意ゆえである。「五族協和」という大義名分の下に進められた侵略の被害者である中国の人々のみならず、加害者である日本の国策の果てに農業移民たちは命を失う・家族と生き別れになる、という大きな悲劇に巻き込まれた。過去の歴史を直視し、検証し、風化させず、未来に伝え続けるという記念館の姿勢は、平和への強いオーラを以って訪れる人の姿勢を正す。

1972年に日中国交が正常化したが、中国東北部からいわゆる「残留孤児・残留婦人」の帰国が始まったのは敗戦から40年近くを経た1980年代で、帰国者の多くは中国で育んだ家族である二世・三世の子供たちを伴っていた。私自身はこの子供たちの学校教育というやや特化した仕事を通して、過去の歴史の生身の部分と向き合うことになった。というより、過去の歴史ではなく、まさしく歴史の中に生きている人々と向き合うことになった。この人たちの苦しみの拠って来るところを戦後の日本は考え続けてきただろうか。

この満蒙開拓平和記念館で、2019年10月に「日本とドイツの引揚者・帰国者の戦後」という題のシンポジウムが開かれた。ヨーロッパでも起きていた同じような問題について、このイベントに参加して初めて知ることになったのだ。

ドイツからは「被追放女性同盟」のメンバー3人がパネリストとして来日し、具体的な体験のみならず、この問題の本質と取り組むべき理念について熱く語ってくれた。

ドイツも敗戦に伴いポーランド、チェコ、ルーマニアなど占領地からの引揚げや残留、戦後しばらく経ってからの後期帰国など、日本と同じ様な状況があった。歴史的ないきさつに差異はあるものの、国としての加害が個々のドイツ人の加害行為と認識され、占領地解放後に「追放」されて言葉や文化も異なる「祖国」に帰国した過酷な運命という構図も似ている。しかし、国として、国民としてそれぞれの歴史にどう向き合ってきたのか。歴史は今の社会にどう生かされ、還元されているのか。戦後のドイツには加害と被害の事実を明確に受けとめ、過去への冷静な反省がある。そしてその思いが国民に共有され、過去の占領国にも理解される努力をし続けているのではないか。

加害についてパネリストの84歳の女性が次のように言った。「自分の不幸とは何か、それは加害者としてドイツ人に生まれたことだ。謝罪や補償で終わることではない、一生涯この罪の意識を持ち続けることしかない」と。「その意識が次の世代へ伝えられることが過ちを繰り返さないことになる」と。

満蒙開拓平和記念館

日本社会がこれから進むべき平和への道は未だ曖昧に揺れ動いている。

戦争末期、日本では戦闘員ではない民間人が大規模な悲惨な攻撃を受けた。積極的に始めた戦争の当事国であることの意識を置いてきてしまうほどの悲しみ苦しみが日本本土の人々に体験された。しかしその悲しみ苦しみを生んだ構造への冷静な認識、被侵略国への思いは十分だったか。考えることが「自虐」と表現され否定される風潮すら感じられ、戦争を考えるのは時代錯誤といわれかねない時代になっているのではないか。

満蒙開拓平和記念館の中では、中国の荒野に放り出された日本人の苦しみをただ「翻弄された」というとらえ方ではなく、それを生んだ歴史の一部だったという胸の痛みが明らかにされている。敗戦から75年が経った。平和は意識して過去を振り返らないと維持されないのではないか。ユダヤ人収容所を巡る平和ツアーに参加する人も多いのだが、この山間の満蒙開拓平和記念館にも、もっと多くの日本人が訪れ、過去と向き合うことを願ってやまない。

 


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