「召命」について


ともえ

召命。
“命を召す”という言葉があまりにも大きくて、難しく考えすぎていた時期がありました。
しかし、“いまこの瞬間”のことを考えてみようと思えたとき、ようやくこの言葉と向き合える気がしてきたのです。
愛である神様が、いまこの瞬間のわたしの命を招き寄せ、受け入れてくださることを考えると、自分の足元が堅く固められていくような心地がするのです。

現在わたしは、TwitterやLINE、修道院での使徒職のお手伝い、さまざまな形での福音の分かち合いに取り組む時間を、神様からいただいています。

Twitterの活動は、大切な親友が声をかけてくれたものでした。
日々を、ただ必死に生きる繰り返しだけにはしてしまいたくはありません。小さな祈りを神さまにささげながら、暮らしたいのです。
そんなことを思って、小さな動物になりきってツイートしています、ニャ🐱
その日その日の感動を、神さまとともに味わう……そんな喜びを確かめる場になっています。

たまたま出会った青年たち、信徒さんたちが集まったグループにも、いくつか参加しています。青年たちのつどいにはブラザー井手口も加わってくださり、そのおかげでしっかりとした信徒グループになることができました!(笑)
青年たちは、教区も、国籍も、信仰の有無も、様々です。いろんな場所で、いろんな意向でつどい、それぞれの真剣な信仰告白に圧倒されたり、学ばせてもらったりしています。
常に活発に活動しているというよりは、思い思いの時に神様のことや喜びを分かち合って充電するような、そんな止まり木のような場所になりたいと思っています。
多様性の豊かな仲間たちと交わり、助け合う中で「ここに、愛である神が、イエスさまがおられる!」と、たしかに感じる瞬間がたくさんたくさんあります。
その“瞬間”こそ、わたしの命のありかです。

そして本当にありがたいことに、現在、カトリック系出版社の一つである女子パウロ会において、販売の使徒職のお手伝いをさせていただいております。シスターが「祈りを込めることが一番大切なのよ」と、日々声をかけてくださいます。
祈ること!
ご聖体のうちに完全にまします、十字架のうえで死に、3日目に復活し、天に昇られたイエス・キリスト。このすばらしい愛の現存を、どうしたら人々に知らせることができるのだろう! どうしたら人々と、このすばらしい喜びを分かち合うことができるのだろう! この喜びを、生き続けたい。
そんな原動力を、自分自身と神さまの間の祈り、シスターたちや職場の先輩たちの祈りの姿、支え祈ってくださる全ての人の祈りから、いただいています。

日常を生きる人々と共に、日常の中で、神さまの愛を喜びあうこと。それが、神様からのお恵みを受けとめる方法であり、呼びかけへの応えなのだと思っています。

みむねはいつでも、上から降ってきます。お天気雨のように、ふいに降ってきます。
みむねを探し求めているときにはなかなか見つからないのに、はっと気がついたときには大きな船の中で走り回っています。あらゆることに、巻き込まれています!(笑)
もうどこにも逃げられないと思ったわたしは、どっしり地を踏み締め、いつでもご計画を受けとめられる心を目指すことにしました。
日々、小さな召命を受け、懸命にその愛を飲み干したい。そんな毎日を積み重ねていきたいと願うのです。
とてもじゃないが飲み干せないと嘆くときにはきっと、わたしの下の地面が、ゆるんでいるのです。使徒パウロの手紙を読むたびに、パウロの足元の堅固な様子に驚きます。

もちろん、くよくよと思い悩むことばかりです。でも、いつもイエスさまの言葉を思い出します。

だから、明日のことを思い煩ってはならない。
明日のことは明日自らが思い煩う。その日の苦労は、その日だけで十分である。

(マタイによる福音書6:34)

懸命に踏み固めるべき場所は、未来の地面ではなく、いまの自分の、足元なのです。
神様からのみ旨は、かならず降ってきます。
その時に備えて、自分の足元を踏み締めることに夢中になろうと思います。それが、いまのわたしに必要な、備えなのです。
世界を創造した神さまはどこまでもパワフルなお方です。小さな被造物であるこのわたしは、踏ん張らねばなりません。主の愛で、自分の足元を固めていただかなければ、なりません!

日々、自分のおぼつかない足元を睨みながら、神さまからの「今日の呼びかけ」に耳をすましています。
感謝のうちに。

 


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