人はいのちを削った分だけ輝く――今問いたい表現の危機――


金子承代

カルメル修道会司祭、大瀬高司氏によるAMORの記事を読んで、AMORへ寄稿する話が決まったのが2月26日のことである。その際、大瀬氏は、『反戦主義者であった』加藤周一氏による朝日新聞夕刊に連載していた『夕陽妄語』(1994年11月21日)を引用された。『夕陽妄語』の冒頭は、次のようである。

『近頃、しきりに私は一九四〇年を想い出している。』

わたしは、この「1940年」を1994年に「想い出している」と書かれた記事がどのような展開を見せるのかに興味を持ち、その文章を読み進めた。その時わたしは、自分の思いを表現する場所に飢えており、しかしながら表現することを恐れていたので、Facebookに挙げられたAMORの記事に少しだけ意見を加えシェアをした。

それが編集部の目に留まって、瞬く間に寄稿の話が決まった。当初取り上げる予定だったテーマが「表現の不自由展その後」である。

少しだけわたしの話をさせていただくと、わたしは中学1年生の頃から合唱を始め、社会人の合唱団やオーディション制合唱団の経験を積んだのち、ソロに転向し、ソロコンサートや婚礼聖歌隊での仕事を5年間経験した。その後、東京メトロポリタンオペラ財団スターファーム(現在育成部)の団員としてオペラ出演の経験がある。これまでの人生の大半を音楽に捧げ、スターファーム在籍中は、特に命を削って音楽に勤しんだ。そのとき実感として感じたことは、「人はいのちを削った分だけ輝く」ということだ。

話を戻すと、わたしが「表現の不自由展その後」に触れたいと思ったのは、大瀬氏が引用された『夕陽妄語』に1940年、1941年に何が起こったのか、という記述で『文学芸術の世界でも、批判的な言論は一掃された』とあり、それを2020年現在危惧すべき出来事の象徴として、「表現の不自由展その後」に関わる一連の流れが現代日本の世相を映し出していると感じたからだ。

前置きが長くなったが、2月26日の時点では、新型コロナウイルスによる影響がここまで及ぶとは想像もしなかった。本稿では、「表現の不自由展その後」に端を発した「表現の自由」についてを取り上げ、現在公演中止や公演延期に追い込まれている全ての舞台芸術に携わる方々にも触れていきたい。

『憲法第21条1項は「言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保証する」と規定し、2項は「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」と規定する。』ものである。粕谷友介氏によると、

『表現の自由は、精神的自由権の中核的地位を有する。表現の自由の保障は、人間の人格的形成・実現を目的としていると同時に国民主権に結びついた民主主義の維持・発展を目的としている。人間の人格的生存・形成に不可欠なものであり、民主主義の維持のためにも「一切の表現の自由」は必要不可欠なものである。』

(『基本的人権の保障』北樹出版、1997年)

としている。

「表現の不自由展その後」では、文化庁の補助金不交付を、愛知県の大村秀章知事ら県政与党が「事実上の検閲」と批判し、その展示内容から脅迫によって補助金が不交付となり、さらに一度中止になった展示が再開される運びとなったのは周知の事実である。

2020年4月号の『美術手帖』では、「表現の自由とは何か?」を主題に、「表現の不自由展その後」について特集が組まれている。特筆すべきは「あいち宣言・プロトコル」であろう。『解題「あいち宣言・プロトコル」』で村山悟朗氏は次のように述べている。

『アーティストは、その地の法や慣習ひいては民族・宗教・文化に敬意を払い、表現に挑まなければならない。』としたうえで、『プロトコルが大村会長の政治的パフォーマンスに回収されてはならない』とRFAの記者会見で、藤井光氏が強調された文言を、重要な指摘だったとしている。そして、『公的機関の政治的中立性(教育基本法)と、芸術の政治性とを、いかに衡量するかは大きな問題だ。また、芸術家は必ずしも「表現の自由」の法規範を根拠に制作するわけではなく、時に逸脱することで芸術を形づくってきたとも言える』としている。

「表現の不自由展その後」に関しては、『美術手帖』による特集が秀逸なので、『美術手帖』に譲るとして、この「表現の自由」について、現在進行形で形を変えて行われている弾圧が、現在の新型コロナウイルスによる、あらゆる舞台芸術の公演中止、公演延期の問題であろう。

確かに、昨今世界中で猛威を振るっている新型コロナウイルスについては、公演を自粛することが望ましい面も皆無ではない、という意見があってしかるべきであろう。

音楽家は、先に述べたようにいのちを削って芸術をしている。私が団員であったときに、「毎日悪夢を見るし、立ち稽古の前などは、緊張で身体が震え、痛くなる」と、演出家やテノール歌手を含めたディレクター陣に相談したことろ、「みんなそうだ。それが普通の反応であり、立ち稽古の前に何の症状も起こさないことのほうが不自然だ」と愛を以って一蹴された。日本では、オペラ公演のロングランが実現していないが、舞台芸術に携わる者がひとつの公演にかける想いは甚だしいのである。

舞台芸術は、お客様が当日いらっしゃってくださり初めて成立するものだ、とわたしは考える。「来てくださったお客様に、少しでも元気になって帰って欲しい。今日という日があってよかったとか、今日という日があったから明日も頑張れそうだとか、そういった生きる活力の一助になりたい」と切に願いながらステージに立っていた。その想いは、わたしだけが特別に有した想いではないはずだ。

誰も、お客様を危険に晒したくはない。そうであるから、公演の自粛は完全なる政府への忖度で行われているとは言い難い。

しかしながら、誤解を恐れずに書くならば、この「公演中止・公演延期」の問題が、先に述べた「表現の自由」を侵しているのではないだろうかという問いが、タブー視されてはいないだろうか。

指揮者の井上道義氏は自身のブログで想いを綴っている。

『そんな新型コロナウイルスは以前から存在していた物が別の形に変化(変異)したにすぎないだろう。シンガタコロナ族をある時点で水際で、人類の生活に不当に?侵入するのを止めても、何ヶ月か後には地球上あちらこちらに、間違いなく侵入するだろう。とっくに負けている。負け戦なのだ。いえ、昔、記録のない場所、時代に、既に存在していたヴィールズ様なのだ。今の世界の人類の心の中は、負け戦と分かっていながら、連合国側の理不尽さに絶えられなくなり(原文ママ)、「短期決戦でなんとか閉塞状況を破ろう」とした1941年当時の人の心理状態に近くないか?』

とし、2017年にアメリカにおいてインフルエンザで亡くなった65,000人、2018年には日本で亡くなった3,325人を例に挙げ、次のように訴える。

『それなのにアメリカンフットボールの大会を、中止にしたか?野球の開幕を遅らせ、相撲を無観客で行ったか?国境ヴィザ閉鎖をしたか?移動禁止にしたか?』

わたしは、ここで読者にささやかな問題提起をしたいのだ。今、世の中で起こっていることは、「表現の自由」に対する侵害であり検閲ではないのか?

旧約聖書の時代から、人間は愚かで罪深い。しかしながら、牧畜、軍事と並んで、芸術が三権分立を成した。『芸術の社会的位置に関するもっとも古い記録は、旧約聖書の創世記第4章』であると今道友信氏は『美について』の中で記述する。創世記4章といえば、牧畜や音楽、技術など文化の芽生えが語られるのに並行して、カインの罪の結果として人間の間で暴力が拡大することが書かれている箇所である。

「表現の不自由展その後」においての批判的な記事では、『芸術祭をめぐる議論では、芸術などを神聖化しようとする雰囲気も感じられた』としているが、芸術が神聖化とまではいかなくとも、宗教的なものであることは、洋の東西を問わない。それに反して、人間が罪深いからこそ、そこにドラマが生まれ、芸術と成る側面を否定はできないはずである。

様々な角度から、一考の余地があると思うのだが、いかがだろうか。

 

金子承代(かねこ・つぐよ)

1986年3月18日生まれ。二松学舎大学卒業。

中学生で合唱を始める。全日本合唱連盟全国大会中学生の部銀賞受賞。大学生のときにうたびと風のつどいに入団。委嘱初演多数。オーディション制合唱団MTVE出演。2013年、自身初となるソロコンサートで好評を博す。2017年、東京メトロポリタンオペラ財団スターファーム入団。メイキングカルメン メルセデス役、ジュヌヴィエーヴ役、椿姫 輪舞 ラロンド アンニーナ役。片山みゆき、立花敏弘、青栁素晴各氏に師事。

また、2013年より、地域新聞社にて取材記者を務める。

 


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