佐藤真理子
教会員としての私の所属は、福音派という、聖書は神の誤りなき御言葉だと主張するプロテスタントの一派です。私はカトリックの神学部を出た後プロテスタントの神学校で学びました。そのような経験から教会については深く考えさせられてきました。今回、聖書から得た私にとっての教会についてを書かせていただきたいと思います。教派の紹介としては相応しくないかもしれませんが、信仰のある無しに関わらず何か参考になれば幸いです。
キリストを信じると、教会に行かなければならないのか、これは多くの人が抱く疑問かもしれません。聖書が繰り返し語るのは、教会とはキリストのからだであるということです。そして、教会の頭はキリストです。
教会とは、イエス・キリストを救い主とする信仰者の集まりです。私たちは皆、世界の基の据えられる前から愛された神の子供です。礼拝とは、子供たちが神という父に会うことなのです。
新約聖書の多くの書簡を記しているパウロは、教会はキリストの身体であると繰り返し語っています。イエス様は3日で神殿を建て直すと仰いましたが、イエス様がいらっしゃる場所が教会なのです。聖書に示された教会とは、イエス様のいらっしゃる場所なのです。
聖書には、「二人三人でも、主を信じる者が集まれば私はそこにいる」というイエス様の言葉があります。この言葉に導かれ、私は家族と家で讃美歌を歌い、聖書を読み、祈るようになりました。家族にクリスチャンがいなくても、共に神を信じたい、知りたいという仲間がいれば、街中でもどこでも仲間と共に神様を礼拝することができます。イエス様を信じている人は、その人が主の宮であると聖書は教えています。キリストを信じる者が、教会そのものなのです。つまりどんな時も、キリストを信じる者にとって教会は離れ得ないものなのです。キリストの御名の元、行動するならその人が教会でありキリストの身体であるからです。私自身、パウロも牢獄で礼拝していたのだと気づいたとき、いろいろなところへ出ていき神様を伝えたいと思うようになりました。カンタベリー大主教であったウィリアム・テンプルは、「教会とはクリスチャン以外のためにある。だからクリスチャンは教会の外に出て、世のために活動するのだ。」と語っています。
教会とは、新約聖書の原語ギリシャ語でエクレシアといいますが、これは人の集まりを指す言葉です。私達の教会籍が地上のどの教会にあっても、私たちの本当の教会籍は、天にあります。「私たちの国籍は天にあります。」と新約聖書のピリピ書が語る通りです。
教会は一つのキリストの身体です。教会には様々な教派やグループがありますが、天において区別はありません。正教会、カトリック教会、プロテスタント教会、福音派か、メインラインか、ペンテコステか。そんなことも神様の目には全く関係ありません。互いを否定することは、キリスト御自身の身体を否定することなのです。イエス・キリストを信じる者は一人一人が欠けてはならない唯一無二の、キリストの身体の尊い器官なのです。
初めに投げかけた、キリストを信じた者は教会に行かなければならないのか、という問いには聖書によって次のように答えることができるでしょう。「私たちが行くのでなく、私たちが教会なのです。」教会とは通うものではなく、私たち自身です。
愛のある場所に神はいらっしゃいます。神のいる場所が教会です。神は愛です。愛のある場所が、教会なのです。イエス様は、十字架に掛かり死んだ後、復活し、弟子にこう語りました。「私は世の終わりまであなたがたとともにいます。」イエス様は復活して、今この瞬間私たちのいるところにいらっしゃいます。キリストの身体である私たち教会を導くのは、教会のかしらであるイエス様です。イエス様が今生きていらっしゃることを信じ、この方に教会を委ねたとき、私たちの中に神が現れ、互いに愛し合うことができるようになります。人がその愛を見たとき、私たちが今いる場所が、教会となるのです。
佐藤真理子(さとう・まりこ)
東洋福音教団沼津泉キリスト教会所属。上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。現在トランスワールドラジオ説教者。
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