ミサはなかなか面白い93 旧約と福音の関係を探る面白さ


旧約と福音の関係を探る面白さ

答五郎 こんにちは。さて、主のご降誕も近づくね。この学びもひととおり閉祭まで見たのだけれど、まだまだ十分に扱っていないことがあったような気がするので、補いたいと思ってね。

 

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問次郎 はい、よろしくお願いします。きょうは、久しぶりに瑠太郎くんと聖子さんがいろいろと質問があるようなのです。

 

 

答五郎 それは歓迎だよ。「ことばの典礼」を扱っているときは、瑠太郎くんと聖子さんとの対話で進めていたから、今回も、聖書関係なのかな。

 

 

瑠太郎 はい。その後も、ずっと感謝の典礼から閉祭まで、一緒に聞かせてもらっていました。今、振り返ると、聖書朗読の関係の話は、まだ少なかったような気がします。

 

 

聖子  わたしも、ぜひ、お願いしたいです。とくに聞きたいのは旧約聖書の朗読についてです。現代になって主日のミサの朗読に入ったと聞きましたが、それで何が大きく変わったのでしょうか。

 

 

答五郎 そう、じつは2019年は記念すべき年だったのだよ。ミサの聖書朗読に関してはね、現在のミサの式次第が決まり、また典礼暦年の新しい仕組みが決まったことに対応して、ミサの聖書朗読配分の新しい仕方が決まって発表されたのが1969年だったんだ。それからちょうど50年、半世紀経ったというわけさ。1969年の末、つまり教会暦として1970年度の待降節第1主日からこれらが実施されるようになったので、先日の待降節第1主日(2019年12月1日)は51年目のスタートだったというわけさ。

 

瑠太郎 半世紀前といっても、ずいぶん昔のことのような気がします。ぼくらの生まれる前のことですから。

 

 

答五郎 それは、私も同じだよ。洗礼から40年ぐらいだから、その最初から現在の聖書の配分でミサに参加しているわけだよ。

 

 

聖子  ところで、旧約聖書のことは?

 

 

 

答五郎 そうだった。たとえば、その前の時代には、待降節第2主日(今年でいうと12月8日)は第1朗読箇所がローマ15章4~13節、福音朗読の箇所がマタイ11章2~10節だった。

 

瑠太郎 ほんとうに使徒書の朗読と福音朗読の二段構えだったのですね。

 

 

 

答五郎 しかも、この朗読箇所は毎年同じ、つまり1年周期だったわけだ。それに対して半世紀前に刷新された現在のミサの聖書朗読は、主日に関しては第1(復活節を除いて旧約聖書朗読)、第2、福音と三つの朗読から成り、それが3年周期になっていて、同じ組み合わせに出会うのは3年ごとというやり方になっている。

 

瑠太郎 3年周期というとA年、B年、C年というあれですね。ちなみに、今年、つまり教会暦2020年度はA年だそうですが、これは、どうしてそうなっているのですか。

 

 

答五郎 あれっ、まだ触れていなかったかな。それは一種仮設定で紀元1年をA年とみなし、次々と割り振っていったときにどうなるかで決まっていく。計算方法としては、年の数を3で割って余りが1ならA年、2ならB年、割り切れたらC年というしくみさ。

 

瑠太郎 たしかに2020年は1余りますね。それでA年なのですね。

 

 

 

答五郎 これは設定の問題だから、そのようなものなのだと慣れていくことだね。さて、聖子さんの質問は、旧約朗読をするようになったことによる変化はということだったね。細かな朗読配分の例示は略すけれど、たとえば、先日の待降節第2主日A年のということになるけど、その第1朗読はイザヤ11章1~10節だ。最初のところを読んでもらえるかな。

 

聖子  「〔その日、〕エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。」ですね。

 

 

 

答五郎 どうしてこの箇所が選ばれているかというと……?

 

 

聖子  それは、福音朗読の箇所次第ですね。福音朗読が「ことばの典礼」の頂点と習いました。この日の福音朗読はマタイ3章1~12節です。「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて……」で始まるところ。洗礼者ヨハネの登場の場面です。

 

 

答五郎 そうだね。では、どういう意味で、その福音朗読と第1朗読のイザヤの箇所が関係していると思う。

 

瑠太郎 イザヤのその箇所で読まれるエッサイはダビデの父で、エッサイの株、あるいは根から育つ若枝ということで、エッサイ⇒ダビデという系譜の延長に、主の霊がとどまる理想の王が現れるという預言だと思います。マタイ1章の系図にこめられた考え方と対応しているようです。理想の王ということは、「弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」(イザヤ11・4)といった文言で表現されています。

 

聖子  その理想的な王のイメージは、すなわち救い主に待望されることで、この箇所が救い主であるイエス・キリストの到来を予告し、約束する預言だといわれるのですよね。

 

 

答五郎 そう、そのように教会は受けとめて、きょう読まれる福音朗読箇所に関係づけているわけだ。

 

 

瑠太郎 でも、きょうの福音で登場するのは洗礼者ヨハネではないでしょうか?

 

 

 

答五郎 よく読んでごらん。福音朗読箇所の続きを……。

 

 

聖子  あぁ、ヨハネも自分の後に来る方のことを言っているのですね。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(マタイ3・11)と。

 

瑠太郎 福音自身もイエスの到来に備えるような意味合いの箇所ですね。しかも、イエスは「聖霊と火で洗礼を授ける」と。聖霊への言及もイザヤの箇所と関連しますね。正当な裁きをする方に働くものという意味で。

 

 

聖子  イザヤの預言も、福音に出てくる洗礼者ヨハネも、結局はイエス・キリストの到来を予告するような、それを準備するような役割をしているのですね。

 

 

 

答五郎 待降節第2主日という日が主の降誕に向かって、それを予告し、約束し、待ち望み、それを準備するような日でもあるという意味合いが、これらの朗読配分ではっきりと浮かび上がってくるだろう。基本的に第1朗読で旧約が読まれる場合は、福音の内容との関連で選ばれているということもここでは見えるだろう。同時に待降節のような場合は、この季節全体が主の降誕に向かって準備するという意味合いがあるから、福音も旧約もその線で結びつけられているのだね。

 

聖子  なるほど、第1朗読で旧約聖書が読まれることで、洗礼者ヨハネの登場の意味も、イエスの登場の意味も、ぐっと奥行きが出てくるのですね。

 

 

 

瑠太郎 今、福音と旧約の関連を考えるだけでも、ちょっとパズルを解くときのようなワクワクするような気持ちになりました。

 

 

答五郎 そうだろう。そんなふうに聖書の世界、つまりは神の意志や計らいがどこにあるのだろうと考えていくような道に誘われていくよ。毎週の主日の朗読配分を見ながら、それをしてほしいな。

 

瑠太郎 ぜひ、やってみます。そんなふうに聖書を見ていくのは新鮮です。

 

 

 

答五郎 もちろん、聖書の一つの文書を、イザヤならイザヤ、マタイならマタイのそれぞれをちゃんと通しでも読んでいくというのが前提だからね。ミサの聖書朗読配分の話、次回も、もう少し続けようかね。

 

瑠太郎 聖子 ぜひ、お願いします。

 

問次郎 美沙 わたしたちもぜひ聞きたいです。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


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