柳沼千賀子
祈りというと通常、自分が祈るものと思って考えます。しかし、私にとって今も忘れられないのは、成人洗礼でまだ信者になって間もない頃、ある神父様からの「誰かがあなたのために祈っていますよ」という言葉でした。えっ、誰が?私のこと知らないはずなのに、と思って驚くと同時に、言い知れぬ嬉しさを感じたのでした。私のために祈ってくださるのは、もしかしたら知っている誰かかも知れません。或いは、まったく一面識もない方が、私のことを聞き知って祈って下さっているのかもしれません。その人は身近な信徒さんかもしれません。或いは、修道者の方が修道院の中で祈って下さっているのかもしれません。
私が嬉しいと感じたその喜びは、他の嬉しさとは一線を画すものです。試験に合格した時、プレゼントを頂いた時、おいしいご馳走を頂いた時、努力が報われた時など、いろいろな場面で喜ばしいことはありますが、誰かが私のために祈っていると思う喜びは根本からの違いがあります。
誰かが私のために祈る時、その人は私を神様の前に差し出してくださっているでしょう。そして神様の前に差し出された私を神様の愛する子として、幸せになることを祈って下さるでしょう。私が不安な思いをしている時、私が一人ぼっちだと感じている時、私が間違いを犯してしまった時、私が祈れない時、そんな状況にあって途方にくれたり、人間的にいろいろと対策などを考えたりしている時にふっとその重荷が軽く感じられるようになったり、光が射してきたりすることがあります。あっ、誰かが私のために祈って下さっているのだ、と気づいて言い知れぬ幸福感を覚えます。空間を超えて、遠いところにあって私のために時間をとって神様の前にひざまずいて祈っている姿を思い浮かべる時、言い知れぬ感動と感謝の気持ちが湧き上がってきます。その祈りは神様によって私のところに届いて実現されます。不思議なことですが、祈りとはそういうものなのです。神様はご自分に助けを求めてくる人を見捨てるはずがありません。
祈られる祈りを知ってから、私も今度は誰かのために祈ろうと思うようになりました。祈りを必要としている人を知った時、それが身近な人であれ、人づてに聞いた人であれ、新聞やテレビで報道された人であれ、救急車で運ばれていく人であれ、「神様、○○さんに必要な助けが与えられますように。幸せになりますように」と祈ります。そして、その時の状態に沿った祈りを加えます。長期間にわたる祈りが必要と思われる人については、リストに名前を書いて、そのリストの名前を読み上げて祈ります。
祈りは空間を超えますから、どこのどんな人のために祈ることもできます。その人の幸せを願う祈りは、真剣に祈っていると具体的にその人のために自分にできることで行動しなければという思いも出てきます。東日本大震災の被災者のために祈っていると、身近なことだけに行動に突き動かされます。大震災以降の私の活動は、そのような祈りから出たものです。
柳沼千賀子(やぎぬま・ちかこ)
カトリック二本松教会所属。東日本大震災後、原発事故の風評被害で苦しむ福島の農家を救いたいと、NPO法人 福島やさい畑~復興プロジェクト~を設立し、活動している。