「平和のあいさつ」百景
答五郎 だいぶ、陽の光も強くなってきたね。春分の近いことが感じられるよ。さて、前回はどこまで話したかな。
問次郎 「教会に平和を願う祈り」のところを見ました。キリストが与えた平和を今、わたしたちが受けているというところ。そこからまず教会における一致と平和を祈ったのでした。
答五郎 それは、いわば、全教会として、そして全世界との関係の中で平和を祈ったという部分だった。そして、次に……
問次郎 今、ここに集まっている共同体の集会の中でキリストの平和を受けるのですね。
答五郎 まず、式文的にはどうなのだろう。
美沙 はい。「主の平和がいつも皆さんとともに」「また司祭とともに」から始まります。
答五郎 このようなあいさつの対話句、つまり一同が「また司祭とともに」と答えるところとしては、開祭、福音朗読、そして、奉献文の冒頭の対話句に続いて4回目になるのだけれど。
問次郎 平和を与えてくれるキリストが今ここにいるということが簡潔に示されているわけですね。
答五郎 そうだね。ヨハネ福音書20章19~31節の中で繰り返されていた、イエス自身の「あなたがたに平和があるように」(19節、21節、26節)のことばをそのまま受けたような言い方で、司祭が平和の主であるキリストがここにおられることを告げているのだよ。
美沙 平和のあいさつという信者同士のあいさつを真っ先に思いますけれど、大前提はキリストの平和がここに与えられているということなのですね。
答五郎 たしかに。キリストの平和をしっかりと受けとめて、その力、息吹の中で、信者同士があいさつを交わせるというところが大きいね。そして「互いに平和のあいさつを交わしましょう」となる。この呼びかけは自由でよいようだ。典礼書にあるのは例文ということらしい。
問次郎 信者同士のあいさつの光景は面白いですね。皆、手を合わせて「主の平和」と言いながらおじぎをし合うのですがね。周りを向いても顔が合わせるタイミングをつかむのがなかなか難しいというか。右を向いたら、右側にいる人もさらに右側を見ていて……
美沙 それはそうですね。周りの人たちとしっかり顔が合うまでだいたい2周はしてしまいます。
問次郎 それに顔を合わせるときも、にこやかにしているとほっとしますが、神妙な顔をしたままだと、なんとなくぎこちなく感じてしまいます。
答五郎 そうだね。日本の場合だと、おじぎという習慣で行われているけれど、握手文化圏では、互いに手をとりあって握手して……とかなり親密感を強調するよ。もともと新約聖書の時代には、使徒の手紙に「聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい」(2コリント13章12節)とか「愛の口づけによって互いに挨拶を交わしなさい」(1ペトロ5章14節)という呼びかけがあって、初代教会の信徒たちの互いの挨拶の仕方とその意味を記している。今でいうハグのことだと思うけれどね。
問次郎 ともかく、ミサの全体が司祭と信徒が向かい合う形で行われてきた流れだったのが、ここで、突然、場がゆるむというか、互いに向かい合うというひと時があるというのが珍しいというか、いつも印象深いところです
美沙 固い雰囲気で続いてきていたミサが、急にくだけるというか親密感があふれるものになるのは、好きなところです。あいさつするのも楽しいです。
答五郎 ところがね。今のミサになって50年近くなるが、平和のあいさつが活発に行われるようになったなかで、こんな議論が沸騰したこともあったよ。つまりミサの中であのようにあいさつはするのに、ミサが終わったら、みんな知らぬふりで帰っていく。相互の親睦などあったものではない。ミサの中の平和のあいさつは“虚礼”だ。あんなことを神聖な祭りでする必要などあるのだろうか?!ってね。
問次郎 だからといって、みんな手をつなぎましょうと親密感を強調しすぎるようなのも違和感があります。
美沙 その意味では、ミサのあいさつが、軽くにこやかに、あるいは控えめに少し神妙にといった感覚は、絶妙なのではないでしょうか。日本人の場合は、ハグや握手のように直接触れ合うのではなく、適当な距離感があるというところが。
答五郎 なるほど、“あいさつの典礼美学”ってとこかな。重要なことは、初めに話が戻るけれど、ここでのあいさつは、単にここの共同体の人が仲良くなるためということだけに尽きるものではないのではないということさ。それなら信徒会館ですればいいのだから。まず根本にあるのは……
問次郎 平和をもたらすキリストですね。
美沙 そして、この共同体から全教会、全世界、全人類につながり、広がっていく平和ですね。
答五郎 そう、言ってみれば、これは人間関係レベルのことではなく、全教会との関係、全世界との関係、根本的にはキリストとの関係、父である神との関係までを含むところのあいさつだということだよ。実はね、総則の82番には新たに近年(2000年)に加えられたことがあってね。ここだが。
美沙 「各自が近くにいる人と、個別に節度を守って平和のしるしを交わすのがふさわしい」ですね。
答五郎 これは、だらだらと握手やハグを続け、司祭も会衆の中に下りていってたくさんの人と延々とあいさつするなど、ここの部分が肥大化しそうな地域の教会があったらしいのさ。しかし言いたいのは、ミサの平和のあいさつは、実質のあいさつ以上のもの、ミサ全体の儀式の一つだということさ。いわば「平和のあいさつの儀」だね。「儀」であるということは、何かを示すしるしの行いということさ。なんども言ってきたことがやはり大事だろう……。
問次郎 キリストから平和が与えられていること、全教会の交わりがこの共同体の中にもあることが、示されるのですね。
美沙 そして、主の平和が全教会に、全世界に広がるように、今ここからで祈っていますということですね。
答五郎 そうだ。平和のあいさつは、あくまで平和への祈り……行為となった祈りだということだと思うよ。そして、ミサの式次第は、だんだんと拝領の行為へと移っていく。次はそのあたりの動きと、「平和の賛歌」を見ていこう。
(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)