聖書とは?――伊藤計劃『虐殺器官』を補助線に


石原良明

『虐殺器官』というSF小説がある。2007年に出版され、その界隈ではセンセーショナルを巻き起こした作品だ。著者の伊藤計劃氏はちょうど10年前に34歳の若さで亡くなったが、2017年に劇場版アニメ化されたこともあり(実写映画化の企画もあるという)、現在でもネット上では盛んに考察が続けられている。策謀渦巻く情報機関、国際紛争とテロ、近未来の監視社会を枠組みとしつつ、特殊任務に従事する主人公の心情描写とメカニック描写が丁寧に織り込まれる傑作だ。その中に、聖書読みとして思わず目を引く一文があったのでご紹介したい。

いつかウィリアムズが、面白い小説はないか、と訊いたことがあった。手持ちの小説は全部読んじまった、と。どういうのがお好みですか、とアレックスが訊きかえすと、そうだな、エンターテインメントがいい、とウィリアムズは答えた。セックス、ドラッグ、バイオレンスだ。するとアレックスは笑って聖書を差し出したのだった。

(伊藤計劃『虐殺器官』ハヤカワ文庫JA版 68頁より引用)

 

聖書がわからなくても物語の展開がわからなくなるわけではないのだが、この作品、ところどころにさり気なく、しかしもしかしたら物語全体を読み解く鍵のようにして、キリスト教的なモチーフが散りばめられている。今回は残念ながら、その方面からこの傑作の作品理解を深めるのは見送ることにせざるを得ないが、引用した回想シーンの文言は見事であると言わざるを得ない。聖書のある側面を見事に捉えているからだ。

こんなことを言ったら怒られるのかもしれないが、事実、旧約聖書に関していえば、戦争とありとあらゆる暴力がまるで日常のように語られる。人に対してまたは神に対して、もしくはその両方に対する裏切りの話もまた多い。もちろん、現代人の価値観と聖書の時代の価値観が異なっているからこそショッキングに感じるのだが、とにかくバイオレンスの連続だ。ドラッグは存在しなかったので登場しないが、そのようなリアルな(もちろん旧約聖書の中には多様な人間観が示されてはいるのだが、総じて悲惨にして無様、救いようがないほど愚かでみじめな)人間の有り様を、旧約聖書は目を逸らすことなく連綿と描き切り、その答えとしてイエス・キリストの出来事を新約聖書に続けて語っていく。人間を救うという、神の断固たる意志は創造の始めから終末の終わりまで人間を裏切ることはない。旧約の預言者や詩編の歌い手によって語られる救いの希望は、彼らにとっては思いもよらない仕方で、新約で成就する。だから、新約の救いは、旧約が示す人間の現実や待望とセットでなければ、わからないということはないかもしれないが、深みがないものになってしまう。旧約で希求され仄かに見えていた何かが、新約で明らかになるということだ。問題を見なければ解答の意味もわからない。そのような全体的なプロットを押さえることが大事だ。

左から、教皇庁教理省 国際神学委員会編『今日のカトリック神学』、伊藤計劃『虐殺器官』、日本聖書協会『聖書 新共同訳』

ところで話を戻そう。『虐殺器官』で重要な要素となるのが、「虐殺の文法」だ。この概念が物語世界における地球的規模の災厄の原因であり、その結末にも盛大に関わる鍵なのだが、とにかく言葉と言語学に対する執念深さが作品全体を貫いていて、いかにもSFらしい。

通俗的に、「キリスト教は言葉の宗教」と言われる。それは聖書にこだわるから、だろう。ところで聖書についての説明はキリスト教の内外を問わず莫大に存在するが、カトリック教会の公式文書として聖書について論じたものは、実はそう多くはない。近代以降、宗教改革と啓蒙主義の時代を背景に様々な発言があったが、歴史の移り変わりを反映して基本的な立場は第二バチカン公会議の『啓示憲章』にまとめられている。それとセットで読みたいのは2010年の使徒的勧告『主のことば』(邦訳は2012年)である。あと二編ほど聖書解釈の方法論についての教理省の公文書が存在する。もちろん様々な教皇の発言や文書などにおいて必ず聖書は用いられてはいるのだが。

こうした文書を通して、教会が聖書そのものについて説明するとき、一貫しているのは、それが単なる文字、単なる本に過ぎないのではないということだ。これらの文書を要領よくまとめた文が、意外にもドグマの文書にあったので、それを引用しよう。

教会は聖書に非常に深く敬意を払っています。しかし次の点を認めることが大事です。「キリスト教信仰は『書物の宗教』ではありません。キリスト教は『神のことばの宗教』ですが、この神のことばは『書かれた、ものをいわないことばではなく、受肉した生きたみことば』の宗教です」。神の福音が基本的に証言されているのは、旧約と新約とからなる聖なる書物です。聖書は「神によって息を吹き込まれ、すべての時代のために一度書くようゆだねられました」。それゆえ、「その書物は神ご自身のことばを変わることのない形で提示し、聖霊の声を何度も繰り返し預言者と使徒のことばのうちに響かせています」。聖伝とは、神のことばの忠実な引き渡しであり、預言者たちと使徒たちによる聖書正典において、そして、教会の典礼、あかし、奉仕において証言されています。

(教皇庁教理省 国際神学委員会編『今日のカトリック神学』第7項より引用)

 

つまり、キリスト教は書物の宗教ではなく「生きた神のことば」であるイエス・キリストの宗教であり、そのメッセージは聖書にまとめあげられているというのだ。しかもそれは一度書かれたものの、聖霊が聖書を通してことばを響かせ続けている。聖伝とは聖書のあとの教会の伝承でカトリックでは重視されるのだが、いずれにしても、その生きたことばが人を生かし、今も教会の様々な分野で生き、人を生かし続けている。

聖書には、滅びからの救いのメッセージとして、「生きたことば」が収められている。他方『虐殺器官』においては秩序ある世界に「虐殺の文法」が破滅をもたらし、ディストピア世界を現出させた。このようなパラレルの存在は、あながち的外れでもないような気がする。特にエピローグのクラヴィスの独白には、自ら罪を負うという救いの対極の態度が披瀝されているからだ。

聖書について分かりやすく書くことになったので、今回は『虐殺器官』を紹介することにした。

(AMOR編集部)

 


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