聖体による一致を願う祈り
答五郎 やあ、こんにちは。秋晴れが続くね。ちょうど涼しく、頭がクリアになるところで、奉献文の旅を続けることにしよう。
問次郎 今は、奉献文の頂上にいるということでした。イエスのことば(聖別句)に始まり、第二奉献文では「記念して……ささげます」という肝ともいえるところにいます。
答五郎 きょうは、その続きだ。美沙さん、朗読を頼む。
美沙 はい、ここですね。「キリストの御からだと御血にともにあずかるわたしたちが、聖霊によって一つに結ばれますように。」
答五郎 そう、これは、聖体による共同体、ひいては教会全体、神の民全体の一致を願う祈りにあたる。とくにそのことが「聖霊によって」実現するよう祈るところといえる。同じ趣旨の祈りを第三奉献文で見てみようか。
美沙 「御子キリストの御からだと御血によってわたしたちが養われ、その聖霊に満たされて、キリストのうちにあって一つのからだ、一つの心となりますように」。意味はよくわかります。
答五郎 奉献文の祈りの要素としては、ここは、「交わりのエピクレーシス」とか「一致のエピクレーシス」と呼ばれているところなのだよ。
問次郎 エピクレーシス? ええっと……。
答五郎 聖霊の働きを願う祈りを意味するギリシア語の用語だ。上に向かって叫ぶ、呼ぶといった意味の単語で、聖霊の働きを願う祈りを意味する典礼学の用語となっている。前も出てきただろう(ミサはなかなか面白い 54)。
美沙 はい。そこでは、「いま聖霊によってこの供えものをとうといものにしてください」というところを指していました。
答五郎 そう、そちらはパンとぶどう酒が聖なるもの、つまり聖体となって、聖化する働きをもつものとなるように、聖霊の働きを願う祈りだった。それで「聖別のエピクレーシス」と呼ばれる。今見ている「交わり、または一致のエピクレーシス」も、人々を一致させる聖体の働きをもつように聖霊の働きを願うということで、聖体の秘跡の意味をやはり示しているだろう。
問次郎 聖体の秘跡は、聖化の秘跡であり、一致の秘跡でもあるということか。
答五郎 「キリストの御からだと御血にともにあずかるわたしたちが、聖霊によって一つに結ばれますように」という第二奉献文のこの祈り、第三奉献文でも第四奉献文でも趣旨は全く同じなのだけれど、この背景に有名な新約聖書の言葉があるのがわかるかな?
問次郎 ここで、ズバッといえたらいいのですが、まだそこまでは……。
美沙 教えてください。読みますから。
答五郎 パウロの1コリント書10章16~17節だ。頼む。
美沙 はい。「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」
問次郎 なんか怒っているような雰囲気ですね。
答五郎 たしかにね、皆キリストの体と血にあずかっているのに、一致していないのは問題だ。コリント教会の信者が心から一つになっていないようななかで、この典礼でいただいているものが何なのかをよく考えて一致しなさい、と教えている説教の文脈なのだよ。10章、11章を通して読んでみるとわかるよ。
美沙 その中で、キリストの体と血にあずかることで「わたしたち」つまり信者たちは一つの体になるというように、聖体の意味が教えられているのですね。
答五郎 ついでにいうとね。ここでキリストの体と血に「あずかる」と訳されているところは「交わる」とか「一致する」と訳すことができる言葉なのだよ。実は、この考え方を土台に、日本語のミサの式次第も聖体をいただく部分のところは「交わりの儀」といっているのだよ。
問次郎 なるほど、そうなのですか。その交わりや一つの体になるということが聖霊の働きによるという考え方も新約聖書にあるのですか?
答五郎 鋭い質問だね。たしかにあるよ、同じ1コリント書12章にね。信者がそれぞれ違う能力を発揮するとしても、分裂しないで、一つの体であるようにと教える文脈だ。4節とか13節に。
問次郎 たまには僕にも読ませてください。4節「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です」。13節「一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」。この一つの同じ霊というのが聖霊なのですね。
答五郎 そうだね。洗礼を受けてキリスト者となったからには、一つの同じ聖霊によって生かされる者となっていて、一つのキリストの体(教会のことをいう一つの言い方)となっているのだね。
美沙 その本来のあり方が聖体によって実現するようにというのが、このエピクレーシスなのですね。
問次郎 さっき、聖体にあずかることは交わりなのだという話で、「交わりの儀」のことに触れていましたが、ここのエピクレーシスは、いわば聖体拝領のための祈りともいえるのではないでしょうか。ただ、「交わりの儀」つまり聖体拝領の部分は、まだだいぶ先ですよね。
答五郎 またまた鋭い指摘だ。奉献文がまだ素朴だったときには、パンとぶどう酒の杯の上に神に賛美と感謝の祈りをささげから、すぐ皆にパンを渡し、杯を回すという簡素な式次第だったと考えられるね。ミサが発展するにつれて、ここのエピクレーシスが念頭においている共同体に関する祈りがだんだん増えていったともいえるのだよ。
美沙 少し離れたかたちになっても、聖体をいただく部分、交わりの儀ですか、そこへと向かう祈りがこのエピクレーシスから始まっているのですね。
答五郎 そう、だんだんと感謝の典礼の全体像が見えてくるだろう。次回は、その共同体に関する祈りを見ていこう。
(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)