江戸時代の初期に、民(農民や漁民)たちがどのような生活をしていたのか。この映画はリアルに表現している。民の手は汚れ、爪には土が入っている。泥で凸凹になった道を、井上筑後守が歩く足取りがふらついている。スコセッシ監督は、民の暮らしの有り様を描くことで、生きることの重さを見せる。
「将軍より偉い者がいて、人間は平等である」などとは、当時の為政者としては許すべからざる考え方だった。しかし、神を信じるキリシタンたちにとって、それは苛酷な毎日のなかで、唯一の救いだっただろう。いままで支えにしてきた心の拠り所を、突然に棄てろと強制される。信仰を棄てなければ命が危ない。命がけで守り抜かねばならないものとはなにか。わが命に代えてでも守るべきものとはなにか。「生きること」の意味が問われる。
アーノルド・J・トインビーは、キリスト教布教にあたって、最初はキリスト教を直接宣教することが抵抗を生み、次に文明から入ることで静かなる宣教を果たしていったと言うようなことを書いた。『沈黙』は、弱き人間へスポットライトを浴びせることで、苛酷なキリシタン弾圧のなかでの日本におけるキリスト教宣教を考えさせる。「抵抗」とはいかなるものか、そこに宗教性の真髄を読み取らねばならない。
戦後間もなく日本に来たトインビーは、これからの世界のなかで日本に魅力を感じていたそうである。遠藤周作の「母なる神」は戦中・戦後を生きた遠藤が生み出したキリスト教の世界である。踏み絵を踏む足の痛さを、遠藤は描く。それは、井上洋治神父の言う「文化内開花(インカルチュレーション)」にまで繋がるもののように思えてならない。パードレは棄教した。しかし、現代を生きる私がこの生きづらい毎日のなかで、生きることの意味を問い続けるとき、踏み絵を踏んだパードレにこそなにか近しさと深愛を感じてしまうのである。
『沈黙』は、いまの日本を考察するにはもってこいの題材であり、スコセッシ監督が28年がかりで完成させた映画『沈黙』の公開に最大級の賛辞を贈りたいと思う。
(鵜飼清/評論家)
原作:遠藤周作「沈黙」(新潮文庫刊)
監督:マーティン・スコセッシ
脚本:ジェイ・コックス 撮影:ロドリゴ・プリエト 美術:ダンテ・フェレッティ 編集:セルマ・スクーンメイカー
出演:アンドリュー・ガーフィールド リーアム・ニーソン アダム・ドライバー 窪塚洋介 浅野忠信 イッセー尾形 塚本晋也 小松菜奈 加瀬亮 笈田ヨシほか
配給:KADOKAWA