齋藤克弘
現在のミサでは使われなくなった用語ですが、第2バチカン公会議以前の典礼で「通常式文」と呼ばれた式文の中で、唯一複数のテキストが存在したのがこの「平和の賛歌」です。「通常式文」とは、どのミサにおいても典礼文が異ならないテキストの式文を指したもので、「ミサ曲」はその代表的なもののひとつです。他にも主の祈りなどがあります。これに対して、ミサによってテキストが変わるものを「固有式文」と呼びます。現在の呼び方で言えば、入祭の歌や答唱詩編、アレルヤ唱などがこれに当たります。現在では「通常式文」の中でも、例えば「回心の祈り」のように複数のテキストがあったり、叙唱のように季節や祝祭日で歌唱するものが指定されていたりと、必ずしも一つではないことからこのような呼び方はしなくなりましたが、旧来の音楽史などではまだ使われているようなので、覚えておくと便利ではあるかもしれません。
さて「平和の賛歌」は、主の祈りから始まる交わりの儀における、平和=シャロームを願う一連の祈りの締めくくりの歌です。まず、「シャローム」ヘブライ語で「平和」とか「平安」などと訳されますが、聖書的にいうシャロームとは、単に戦争とか争いごとがないことではなく、神が神としてあがめられ、神の支配が全世界に完全にいきわたっている、欠けることがない状態を指します。この「シャローム」を「主の祈り」では時間と空間を超えて、「副文」では現代というわたくしたちが生きている時代に、「教会に平和を願う祈り」ではキリストを頭とする共同体全体において(ただし「教会」という概念をどう定義するかが課題になりますが)、「平和のあいさつ」においてはその共同体で、それぞれこのシャロームを祈ります。そして、最後に祭壇にパンとぶどう酒という形態で現存しておられるキリストに、これからわたくしたちの体内に食物として、また飲み物として来てくださるキリストに、シャロームを願うのもがこの「平和の賛歌」なのです。
「平和の賛歌」のテキストは、まず、洗礼者ヨハネが自分のところへ来られたイエスを見て、自分の弟子たちにキリストの到来を告げたことば「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」から始まります。後半は「われらをあわれみたまえ」という嘆願の祈りが唱えられ、現在の典礼では、パンを割る間、この祈りを2回以上何回でも歌うことができ、最後は「われらに平安を与えたまえ」で締めくくります。何回も繰り返す「われらをあわれみたまえ」では、祭壇の上で教役者によって砕かれるパン=キリストの体をその受難のシンボルとしてとらえ、キリストの死を思い起こすものとして祈ります。最後の「平安を与えたまえ」は、文字通りこれから、今、食べ物として飲み物としてわたくしたちが主キリスト自身をいただくことによって、わたくしたちが(私ではありません)キリストと一つになり、それによってキリストのからだである教会のメンバーであるわたくしたちも互いに一つに結ばれることで、キリストの平和、神の支配に結ばれることを願う祈りです。ですから、最初の洗礼者ヨハネのことばによる呼びかけも、祭壇の上でパンとぶどう酒としておられるキリストに呼びかけるものなのです。
「平和の賛歌」も他の「ミサ曲」と同じように中世以降、トロープスの様式が作られましたが、トリエント公会議で整理されました。第二バチカン公会議の前までは、「レクイエム」とも呼ばれる「死者のためのミサ曲」では、最後の祈りのことばは「彼らに安らぎを与えたまえ(永遠に)」でした。これは、死者のためのミサが神の裁きによって永遠の死から救われることを願う要素が強かったことによりますが、第2バチカン公会議は葬儀を「キリスト教における死の過越の性格をより明らかに表現」するもの、すなわち、洗礼によってキリストの死に結ばれたものはその復活にも参与するということを強調しているからです。現在は死者のためのミサにおいても同じテキストによって祈るようになっています。
(典礼音楽研究家)