フランス・カトリシスムとは何か(6)フランス第三共和政のパラドクス


竹下節子(比較文化史家)

 

フランス革命後のカトリック教会

フランス革命によって土台を奪われ、崩されたかに見えたカトリック教会だったが、実はその後の19世紀において、カトリック教会はフランス外交において命綱ともなる役割を果たしていた。

当初の知識人たちは、革命によって「時代遅れ」となったカトリック教会に代わるものを模索していた。すでに、1797年、作家で政治家のフランソワ・ルネ・ド・シャトーブリアンは何がキリスト教に代わるか、と疑問を投げかけた。1820年、社会思想家のサン=シモンは「全てのキリスト教は異端」であり、パウロに戻るべきだ、と主張した。

制度としてのカトリック教会を否定するという合意はすでに生まれていた。そこでは、それまで教会が担保してきた「人類愛と地上のモラル」に代わるものは何かという自問が起こる。19世紀の人々は、そのシンボルを科学・技術・産業に託した。強さ、進歩の先に普遍的な意義と幸福を見ようとしたのだ。けれども、残念ながら、産業主義、進歩主義は、カトリックの標榜するユニバーサリズムの道から外れてリベラリズムとソシアリズムへと向かっていった。

不思議なことに、革命時に追われてフランス国内の居場所を一度失ったフランスのカトリックの聖職者たちには、19世紀になって自ら率先して外に出ていく傾向が生まれた。王政復古によって革命の傷から甦ったカトリックは、新しいキリスト教宣教の土地を求めたのだ。19世紀には、実に400もの修道会が生まれ、非キリスト教国において学校や病院を創立していき、世界の宣教者のうち、2人に1人がフランス人というまでになった。

 

中国に進出するカトリック

フランソワ・ブーシェ「謁見する中国皇帝」

アジアでの最大の「宣教地」は中国だった。けれども中国は同時に、西洋先進国の「領土拡張」の対象でもある。16世紀にイエズス会のマテオ・リッチが「宣教師」として足を踏み入れ、17世紀からは、イギリスやオランダの東インド会社が茶などの貿易を独占した。「宣教」としては、17世紀後半に設立されたパリ外国宣教会が中心となり、清王朝の外交と安全を取り仕切る地位を獲得することで、清国を「プロテクトラ」(保護国)と見なすことになった。

領土ではなく外交面での実権を掌握したのだ(フランスは、後にトルコやモロッコでもプロテクトラを行使して、モロッコはアルジェリア、チュニジアという植民地に準ずる保護国となっていた)。

18世紀に一時途絶えた宣教活動も、プロテクトラが残っていたおかげで復活することができた。中国と西洋との関係がさらに深刻化したのは19世紀の2度のアヘン戦争からだった。西洋の列強は、香港がイギリスに割譲されたようにさまざまな居住区を獲得したけれど、フランスは領土や貿易よりもプロテクトラを優先し、1861年には「外務省」に当たる立場を獲得した。各国からの宣教師たちもフランスのプロテクトラを通してのみ入国できた。ローマ教皇庁の承認などは必要とされなかったのだ。

 

第三共和政におけるカトリック教会

1870年にフランスは普仏戦争に敗れて、ナポレオン3世の第二帝政は終わり、パリ・コミューンを経て第三共和政へと突入する。フランス革命の自由・平等・博愛の精神を国是として採用すると共に、1905年の政教分離法へと至るカトリック教会への牽制があらたに始まった。

1860年のイタリア王国の統一以来領土を縮小されていた教皇領を守備していたフランス軍も撤退したので、ピウス9世は宮殿に閉じこもって「バチカンの囚人」状態となった。1878年のピウス9世の葬儀の際は、イタリア統一を阻んだのは教皇だと非難するマニフェストまで見られた。それに対して、後を継いだ新教皇レオ13世は新しい道を開こうとした。政治でなく霊的な権威を持つ主権国家としての外交活動を積極的に始めたのだ。ドイツのビスマルクやフランスのマクマオンらとも交流があり、宣教の使命と外交は国家として切り離せないという立場に立っていた。

教会の権威はモラルに留まらず普遍的なものであるとしたレオ13世にとって、広大な中国は大切な「宣教地」であり、独立国の首長として清国との外交関係を結ぼうとした。そのためにはバチカンがヨーロッパ列強の権力から独立していることを強調した上で、1886年8月に清国に代表団を派遣しようと試みた。それを事前に察したフランスは、それではフランスによるプロテクトラが侵されると強く抗議して、バチカンから大使を引き上げ、フランスのみが中国政府と直接の関係を持てること、バチカンは宣教師の霊的な部分のみに関わるべきだと宣言した。国内ではカトリックを締め付けていたフランス政府だが、外交においては帝国主義とカトリシズムとの明らかなアマルガム(合金)があったのだ。

9月には、フランスとの国交断絶を避けるため、レオ13世は清国との直接の国交をあきらめて、フランスが清国外交を独占することを承認した。

 

フランスとバチカンの不思議な関係

それでも1894年と1900年に、北京はバチカンに使節を送り、パリではフランス駐在のバチカン大使と中国大使が会談した。レオ13世は、1894年に西大后の60歳の誕生日を祝うメッセージを送り、1900年には西大后がレオ13世の90歳の誕生日を祝うメッセージを送るなど、接近の努力は続いていた。ところが1900年の義和団の乱によって数万人に及ぶ宣教師や中国人信者が殺害された。中国でカトリックが広まったのは、修道会がどこでも学校、病院、障害者施設、高齢者施設を設立したからで、フランス語圏の修道会は特にフランス語教育によって影響を広めていた。20世紀になってもフランスは清国に対して、バチカンと近づかないようにと圧力をかけ続けていた。

それにしても、いったんカトリックを締め出したかに見えるフランス革命以来の政府の中で最も反教権的であった第三共和政のフランスが、ここまでカトリック修道会や宣教師と協力的に共に歩んだことには驚かされる。彼らはフランスにとって最先端の「植民者」であった。イギリスのように土地や貿易利権ではなく外交特権を維持するためには、カトリックの宣教会ネットワークが守られている必要があったというわけだ。

当時のカリカチュア(風刺画)には、清国を分け合おうとするイギリス、ドイツ、ロシア、日本の後ろでフランスの「自由の女神」が高みから眺めているというものがある。

バチカンがフランス救国のヒロインであるジャンヌ・ダルクを列聖したのは1920年、ラテラノ条約で独立国となったのは1929年のことだった。

 


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