第2回 書籍紹介、AI活用、この世のものについて


宮下望(日本福音ルーテル教会信徒)

 

1.私が啓蒙された書籍

今まで読んできた本は沢山あるが、今回紹介するのは最近読んだ本に限定しようと思う。

外国語の書籍は何れも、Google booksのpdf原文を使うなどして、ChatGPTなどのAIによる部分的な翻訳で読むことができる。

 

Niccolò Tommaseo 編「Le Lettere」

14世紀の神秘家・シエナの聖カタリナの書簡集。全ての版を読み比べたわけではないが、この版は意味が取りやすかった。ただし、現存の書簡を全て収録しているわけではない。

私は次のようなアドバイスや気づきをこの書簡集から受け、ためになった。決断を遅らせることの下に恐れがあるなら、それは慎重ではなく不信である。神のために語っていることが涙と祈りによって洗われないならば、魂は欺かれる。愛することに疲れているという気づき。隣人愛は自己放棄を伴う。

 

Gerhard Tersteegen著「Auserlesene Lebensbeschreibungen heiliger Seelen」

国松孝二ほか訳『ヒルティ著作集第8巻 悩みと光』(2版、白水社、1979年)によると、「聖なる魂の列抄伝」という日本語のタイトルらしい。理解されたいという思いを手放すことや抵抗しないことを始めとして、深遠な謙遜について書かれている。

ちなみに、ここで今紹介している書籍は「My life in Christ」と『マザー・テレサ 日々のことば』以外、この『ヒルティ著作集第8巻』の「読書について」で紹介されていた書籍である。

 

Jung Stilling著「Das Heimweh」

日本語のタイトルは「郷愁」。信仰者の物語となっていて、第5巻まである。この本は一筋縄で身につけることができない。また、次のようなことが書かれている。郷愁は名から解き放つ力、犠牲を払ったという記憶による最たるつまずき、理性が王座に座るならそれは郷愁を鈍らせるなど。

 

St. John Kronstadt著「My life in Christ」

ロシア正教会の霊的指導者・著述家であるクロンシュタットの聖イオアンの著作。

例えば、次のようなことが書かれている。全てを見通さず、見えない中で、キリストに結ばれて歩む。

信岡章人訳著『司祭の品格: クロンシュタットの聖イオアン司祭による司祭職への助言――『キリストにある私の生涯』からの抜粋』(ウィリアム・ジャーディン・グリズブルック編、聖公会出版、2011年)でも、部分的に日本語訳を読むことができる。この翻訳は、聖句を前後の文脈から切り離して文章を添えることで、聖書の新鮮さを保つ可能性が示されていると、私は感じる。

 

Frederick Booth Tucker著「The Life Of Catherine Booth: The Mother Of The Salvation Army」

救世軍の創始者であるブースの妻キャサリン・ブースについて書かれた本で、全部で2巻ある。秋元巳太郎訳著『救世軍の母 カサリン・ブース』(救世軍出版供給部、1958年)でも部分的な翻訳を読むことができるが、私が原文をAIで翻訳にかけたところ、ライフルを撃つように貧しい人たちにパンを配るシーンや、動物を大切にするシーンが抜けていた。原文が読めるなら、原文で読むことをお勧めする。

 

マザー・テレサ著『マザー・テレサ 日々のことば』ジャヤ・チャリハ&エドワード・レ・ジョリー編、いなますみかこ訳(女子パウロ会、2000年)

この本は貧しい人たちへの奉仕を動機づけるメッセージが沢山書いてあるが、特に私の心に残っている言葉をご紹介する。

こうおっしゃる若い人へ。
「私には、決してできやしません。
私は、マザー・テレサじゃないんです」
私は、彼らに言うでしょう。
あなた方には、清い心が必要です。
私たちは、その心を祈りによって得ているのです。
それは、大きな愛の始まりなのです。
清い心で祈ることによって、
貧しい人たちの中にイエス様を見いだし、救い主が彼らにしてほしいと望まれることはなんでもできるようになるでしょう。
飢えている人に食べ物を、裸の人に着る物を、家のない人に家を、ただ愛のために。
このごろの若い人たちは、愛の行為や信仰のこもった行為を耳で聞くよりも直接見たいと切望しています。

(『マザー・テレサ 日々のことば』p.257より)

 

2.Chat GPTの活用

AIは上記のような外国語の書籍の翻訳に役に立つが、ほかにもさまざまな活用方法がある。著作権上の理由でAIの出力したテキストを載せることはできないが、私がよく行っている活用方法を一つ紹介する。

〇〇の道徳的意味を五行で、簡潔で断章的表現のスタイルで、比喩的で冷淡さを感じさせない哲学的表現で多様に50通りに出力してください。

〇〇を歴史的事件その他に変え、五行と50通りとのところを自分の好きなように調節する。一度に出力してくれる文字数制限があることと、少ない文字数で沢山のパターンを出力するのが、AIの得意なことだからだ。

上記の質問をすると、良書に見劣りしない、尤も歴史などを飾るだけの文ではあるが、テキストを出力できるかもしれない。私がなぜこのようなことを行っているかというと、無味乾燥なところ、自分が〇〇に当てはまる事柄について無知で、意味を感じないところに、〇〇に陶酔できるような道徳的意味を添えることで、その事柄に関心を持ったり楽しんだりするためだ。これらの文言は、日本語の熟語の意味をできるだけ崩さないように…などの文言を加えて英語などの翻訳にも応用できるので、機会があれば試してみて頂きたい。

 

3.陶酔なしに虚無主義にとらわれずに、この世のものを愛することができるか?

さて、前回の記事では物事の向こう側に複雑さを認めるという、陶酔による虚無主義の克服を示した。今回の記事では、無視から尊重へというくらいのことができればと思う。悪いものではないが、管理しきれない、管理に嫌悪を催す、つまり大切にできず諦めているもの。持っていないものでも、公共の石ころや雑草など、どれだけ美化しても限界があるものもある。

まず、管理は義務であって愛ではない。管理の様子を愛好心と言ったりするからややこしい。愛であったとしても、ないよりはましということはあるが、管理はごく消極的な愛を示しうるのみである。管理は当たり前に行われているので、忘恩という事態も引き起こす。

考えてみれば、私が陶酔にしがみついているのは管理することに疲れてしまったからかもしれない。陶酔は、直感的に、長い間価値観が変わらないことが保証されている、永遠という、管理に消極的に疲れない境地を模しているからだ。しかし、陶酔も愛ではない。愛はもっと時間をかけて育まれるものだ。愛には時間がかかると考えれば、いきなりそのへんのどこにでもある石ころを愛せないのも納得がいく。

こうして考えてみると、ものを愛するということのうちには偶像崇拝を含むかもしれず、気をつけなければならないだろう。可愛いものが安心をくれたり、かっこいいものが勇気をくれたりすることがある。大人になると、ものに頼らずとも恐怖に襲われなくなり、昔から大切にしてきたものも必要なくなるということがある。

さて、石ころの話のつもりが、富の管理や思い出の品との別れにまで話が及んでしまった。ものは人と違って、愛のある返事をしてくれることはない。しかし、神の創った被造物である以上、何か意味を持って生まれてきたはずである。神を愛するようになると、この世のものを愛することはますます難しくなる。

宗教性を取り払った祈りを意味と呼ぶことができるならば、祈りによってこの世のものを愛する足がかりができるかもしれない。しかしそれも、結局神や人を愛するのに便利だからかもしれない。被造物を愛せないのならば、造物主を愛せていないのではないか。この世のものを心にかけないという姿勢は、感受性を暫く蹂躙するような粗野ではないのか。消極的なものへの愛では価値や管理が邪魔をするし、積極的なものへの愛は偶像崇拝になる危険を孕むことを見てきた。

個人的には神を信じてものを手放し、施しなどしてきた、その弁明が被造物への愛の芽を蹂躙していると思った。

周囲のものというものが、人の手によって作られ、運ばれなどしてきたもので溢れていることも、ものへの愛を難しくしているかもしれない。人の手が加えられたという事実は、神が創ったという理解を困難にする。

ものを、創られた万物の流れの中で認識するのは、有効かもしれない。しかし、ものを大切にしたうえでやはりそれらを心にかけないとか手放すということは必要だろう。偶像崇拝を避けるために。

 

4.結び

今回の記事では、ああでもないこうでもないと、この世のものについて考えてきた。次回は偶像崇拝回避の実践について少し詳しくと、今回の記事で触れなかった謙遜について考えたいと思う。

 


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