私の足のともしび 詩篇119篇105節


佐藤真理子

あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。

(詩篇119篇105節)

今回のメッセージでは、聖書そのものに焦点を当ててみたいと思います。

聖書は紀元前から存在している、世界で最も古い書物の部類に入る本です。1人の手によって書かれたものではなく、40人以上もの著者によって、数千年にわたる出来事が記されています。印刷技術が生まれる前、書物は人の手で写されて後代へと残されていきました。同時代の多くの書物は、殆ど写本が残っていません。しかし聖書の写本は数知れず存在しています。数えきれない人の情熱によって、この本は今私たちの手元にあるのです。

数千年変わらず、現在に至るまで、聖書は世界一のベストセラーです。極めて古い本でありながら、その内容は古くなるどころか常に私たちに新鮮な驚きを与える新しいものです。古くて新しいという、この不思議な本の特徴を成しているのは、まさしく聖書の持つ永遠性でしょう。

聖書はキリスト者にとっていのちです。なくてはならないものです。それはこれが啓示として与えられたものだからです。世界の始めから終わりまでをつかさどる神によって与えられた、神ご自身を示す、そのような書なのです。

きわめて多くの文字が記された分厚い本ですが、聖書ははじめから終わりまで、イエス・キリストによって示された神のことを一貫して記しています。

世界の始まりからキリストの誕生以前のことについて書かれた旧約聖書には、キリストについての預言が数百あります。数千年かけて多くの人が語ったその預言は、キリストにおいてすべて成就したことが新約聖書を読むと分かります。新約聖書はキリストの誕生以後について書かれたものです。

聖書には、神が愛であること、そして希望を与え続ける方であることが繰り返し一貫して書かれています。聖書は多くの人間の手を通して、神ご自身が書いたものなのです。この聖書の言葉を信じることが、キリスト者の歩みです。

あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。

(詩篇119:105)

キリスト者にとって聖書は道しるべであり、いのちのことばです。全く道が見えないときも、聖書のみことばがともしびとなって私たちの道を照らすのです。パウロは「かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。」(ローマ15:4)と語っています。聖書は私たちに希望を与えます。讃美歌アメージング・グレースの作詞家ジョン・ニュートンは、「神の言葉が信仰者の羅針盤であり、イエスは彼らにとって、正義の北極星であるとともに太陽でもある」と語っています。

聖書を読むほどに、私たちの心は変えられていきます。もし、まだ読んだことがないならば、ぜひ読んでみてください。また、あまり聖書を読んでいないというクリスチャンの方がいらしたら、思い切って1日4章ほど読んでみてください。30分もあれば、読むことができます。聖書を読むほどに、聖書を理解できます。ですから難しいところがあっても気負わずに読んでみてください。

​ 私は献身してからも、あまり聖書を読まない時期がありました。しかし、飢え乾きが与えられ、聖書をよく読むようになってから、読まずには生きていけないほど聖書を慕うようになりました。この本がどんなに魂を潤すかが分かったからです。そして、どんな訓練よりも、どんな本よりも、どんな言葉よりも、この本は私を力づけ、導き、励まし、成長させてくれたのです。みことばへの飢え乾きが与えられるよう、どうぞ祈ってみてください。

書かれた方との関係なしに聖書を読むことはできません。それを導くのが聖霊です。どんな注解書よりも、どんな人の知恵よりも深い知恵を聖霊は与えます。人の知恵は人を高慢にしますが、神の知恵は人を謙遜にします。ペテロは手紙の中で聖書の言葉を勝手に解釈してはならないと述べたのちこう語ります。

預言は、決して人間の意思によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。

(2ペテロ1:21)

ルカの福音書には、復活後エマオで弟子に会ったとき、キリストご自身が聖書の読み方を教えてくださる箇所があります。

それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから初めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。

(ルカ福音書24:27)

また、こうも語っています。

わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。

(ルカ福音書24:44)

聖書は旧約から新約に至るまで、すべてイエス様についての記述です。それ以外の何物でもありません。聖書はイエス様について示すためのものです。

また、同じ箇所に「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」という記述があります。そのときイエス様の話を聞いた二人の心は内で燃えていました。心が開かれ、燃えるまで読むのが、聖霊に導かれた聖書の読み方です。

聖書を心が燃えるまで読むことは、キリスト者のライフラインです。私たちの生活の中では、巧妙に優先順位が入れ替わることがあります。しかし、聖書を神との関係のために読むことは、私たちが水を飲み、食べ物を食べることと同じです。それをしなければ魂が枯渇してしまう命綱なのです。イエス様は、人はパンのみで生きるのではなく、主の口から出る一つ一つの言葉によって生きると語りました。

人と人との関係が信頼を基盤とするのと同様に、神と私たちの関係も、私たちが神を信頼するかどうかにかかっています。聖書の言葉を信じること、これが聖書を読むうえで不可欠なことです。神学の学びをすると、いろいろな考え方に出会うかもしれません。人の知恵が必要だと思うこともあるかもしれません。しかし、問題は信じるか信じないか、それだけです。人の目には聖書の言葉以上に信じたくなるものが沢山映ります。しかし、信仰とは聖書の言葉を何より確かなものとして信じることなのです。

聖書の書かれた目的についてヨハネはこう語っています。

これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じる為であり、また信じて、イエスの名によっていのちを得る為である。

(ヨハネ福音書20:31)

聖書は私たちがイエス・キリストを信じるために書かれたものです。たとえ聖書の原語をいくら学んでも、この目的に立っていなければ意味はありません。もちろん、信仰していなくても、信じるに値するか検証するために読むことは大切なことです。

神の言葉は神の言葉です。同時に、人の言葉は人の言葉でしかありません。一つたとえ話をします。時刻表を見て、私たちは電車の来る時間を予測することはできます。時刻表は人の言葉です。しかし、トラブルが起こって時刻表よりも遅い時間に電車が来ることがあるかもしれません。それを時刻表が示すことはできません。人生において、まだ何も起こる前から、電車が来る正確な時間を示すのが、神の言葉です。

神は全能であるがゆえに、神の言葉は正しいのですが、人は目に見えるものを信頼したがります。しかし、聖書を読むことにおいて重要なのは、神が神であることを認め、全面的に神の言葉である聖書を信じることなのです。

「草は枯れ花は散る。しかし主の言葉はとこしえに立つ。」これは聖書の中に何度も出てくる言葉です。この世のどんなものよりも信頼に値するのが聖書の言葉だということです。このことを踏まえて、最後に一つ、聖書のみことばをあなたに贈りたいと思います。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

(イザヤ43:4)

 

佐藤真理子(さとう・まりこ)
東洋福音教団所属。
上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
ホームページ:Faith Hope Love


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