フランス・カトリシスムとは何か(3)フランス革命とカトリシスム


竹下節子(比較文化史家)

フランス革命とカトリックのイメージと実態

「歴史の教科書」では、フランス革命で、それまで特権階級だった貴族と聖職者が民衆に放逐されたというのが「定説」になっている。王位を捨てて市民カペーとなったルイ16世も結局処刑されてしまった(1793年)。けれども、その後、10数年でナポレオンがローマ教会と和親条約をかわし、以前からのフランス優先のガリカニスム(司教を選ぶ権利が王にあるという制度)に即したカトリックを復活させた、というのが平均的なイメージだろう。

実態はやや異なる。フランス革命の翌年の1790年、バスティーユ陥落の7月14日を「革命記念日」(連盟祭〔la Fête de la Fédération〕/連盟とは革命派民兵組織の連合を意味する)として一周年行事が華々しく行われた。シャン・ド・マルスに集まった30万人の群衆は、各県からパリに集まった民兵たちの行進に歓喜した。国民軍(国民衛兵)の長官であるラファイエットらは「祖国」の祭壇で「国家と法と王」(という三位一体)への忠誠を宣誓した(王や王妃も宣誓している)。そこには十字架が立てられていた。

宣誓だけではない。この式典で、ルイ16 世に任命された司教であるタレーランが、300人近い司祭たちと共に公開の場でミサを司式しているのだ。革命後すぐの8月26日に早くも採用されたフランスの人権宣言は「市民」だけでなく、全ての人間に向けられるという画期的なものだった。その人権宣言第十条には、「公序に反しない限りの思想と宗教の自由」が明言されている。フランスと言えば、ルイ14世の絶対王政下でナントの勅令が廃止(1685年)されてプロテスタンティスムが禁止されたとはいえ、実際はかなりの数のユグノー(新教徒)が亡命せずに潜伏していた。革命によって「信教の自由」が保証され、プロテスタンティスムも許された。王権を担保してきたカトリックが特権を維持したのはごく自然な流れだったといえる。

 

人民の団結に役立ったカトリック教会

人民の団結を強めるためにもカトリック教会は便利だった。聖職者を「国家公務員」と位置付ける有名な「聖職者民事基本法」が議会で採択されたのはこの革命記念日の二日前のことだ(国王の裁可で成立したのは8月24日)。聖職者の中でも地方の小教区の司祭と貴族出身の司教や僧院長などとの格差は大きく、不満も高まっていたから、「公務員」として平等の地位を得ることに納得した聖職者も少なくない。

私たちの多くは、この悪名高い聖職者民事基本法に署名しなかった聖職者たちがただちに迫害されて亡命するか死罪になった、と思いがちだが当初はそうではなかった。署名を拒否した聖職者に対して、革命軍や民衆が没収し、破壊し、収奪したのは、価値ある祭具や宝物などを所有する都市の教会や、大きな修道院の建物、広大な土地などだった。聖職者自身は、人権宣言で「信教の自由」を謳っているのだから、懲罰の対象とは見なされなかったのだ。国からの援助は受けられなかったが、もともと貧しい多くの司祭たちは地方の教会でミサを挙げ続けた。教会はどこでも「村で一番美しい建物」であり、人々の生活と直結していた。

 

歴史の転換点となったオーストリア軍の侵攻

その後、空気は変わる。空気が変わった理由は、カトリック国のオーストリア軍が攻めてきたことだ(オーストリアはフランスより前にローマ教会に背を向け始めて、ピウス6世が折衝に訪れていた)。フランス国内の「自由教会」が革命軍の「敵」と共謀しているとして警戒されることになったので、非署名の聖職者や修道士・修道女たちは地下に潜って活動するようになった。それがさらに政府に脅威を与え、弾圧が始まり、集団の公開処刑にまで至ったのだ。

憲法も何度も書き換えられ、普遍的人権は事実上凍結されて、「国民の義務」が次々と課せられることになる。皇帝となったナポレオンが失脚して王政復古が起こった時代に「聖油の塗布」による聖別式を復活させた政府には、1790年にローマ教皇から破門されたタレーランも名を連ねていた。フランスの世俗権力とカトリシスムの折り合いの歴史は続いていく。

 


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