キリストとの出会い ヨハネの福音書15章16~17節


佐藤真理子

あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。

(ヨハネの福音書15章16~17節)

今回は、私がキリストを信じるようになったときの話を書きたいと思います。この連載の初めの回でも書きましたが、久しぶりに改めてお話ししてみたいと思います。

私の母はクリスチャンだったので、子供の頃の私は母に連れられて教会に行っていました。私が小学生のとき、牧師先生のお嬢さんである私の友達が洗礼を受けました。洗礼はキリストを信じる決心をしたときに、古い自分に死に、新しいいのちと共に生きることを表明するものです。私のいた教会では、洗礼のときに神様が自分にどのように関わってくださったかを語る「証」をすることになっていました。私の友達は、「お父さんが、あなたがイエス様を選んだのではなく、イエス様があなたを選んだのだよ、と言ってくれました。」と語っていました。その言葉は私の中に強く印象付けられました。

私が大学生になったとき、母が病気で入院しました。病気がわかったとき、母は新約聖書の一節であるヨハネの福音書11章4節「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」という御言葉が与えられたと私に言いました。母はそれまである事情で教会を離れていましたが、このことをきっかけに再び熱心に教会に通いだしました。母は病気になったにもかかわらず、内側から力を得て以前より元気になっていました。私は家族以上に母の近くにいるイエス様を見ました。母が手術を受けた日、私は一人病室に母と共に泊まりました。手術後眠っている母につながれた機械の音が響く病室で、泣きながら不安と恐れで一睡もできない夜を過ごしました。手術後、母は順調に回復し、神様への思いをどんどん強めていきました。

 

その後、私は大学で一人の神父さんに出会いました。その方は、出会う人一人一人の一番美しいものを見つめようとするようなまなざしを持った方でした。その神父さんの「砂漠の中にいのちがある」という説教を聞いたとき、あの母の手術の夜、母の最も近くにイエス様がいるのと同様に、私の最も近くにもイエス様がいたのだとわかりました。その頃から私の目に映る世界は変わりました。友達だけでなく、駅にいるホームレスの方や道ですれ違う人、たまたまバスで乗り合わせるような人も、もう私には他人ではなくなりました。「これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」という聖書の御言葉ゆえに、その人たちは、イエス様なのだと思ったのです。それは目に見える世界が輝くような、自分が新しく生まれる体験でした。

私は子供の頃にいじめにあっており、その記憶にはずっと蓋をして生きてきました。しかし、自分が新しく生まれる体験をしたあとに、血の汗を流しながら十字架に掛かる前夜「この杯を取り除いてください」と祈り、あざけられながら人間の罪のために十字架に掛かって死んだイエス様を思うと、なぜかその記憶も癒されていきました。自然と涙が流れ、人を憎む気持ちが癒されていきました。圧倒的な光に照らされて、自分の罪を自覚するようになりました。私は洗礼を受ける決心をし、その年のクリスマスに受洗しました。

 

洗礼を受けると同時に、神様に仕えて生きていく思いが与えられました。神様に仕える人生が、私にとって最も輝きに満ちたものに思えました。教会の牧師先生に聖書の御言葉を求めるように言われ、読んでいると次の言葉が目に入りました。

あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。

(ヨハネの福音書15章16~17節)

この言葉は私が幼い頃友達の洗礼のときに教会で聞いた「あなたがイエス様を選んだのではなく、イエス様があなたを選んだのだよ」という言葉でした。私は生涯この言葉を握って歩んでいくのだと思いました。そして、「互いに愛し合いなさい」というイエス様の命令を伝えるために、神様の愛を伝えるために生きていくのだとわかりました。

実に、母に与えられた病気は、母が与えられた御言葉どおり、神の栄光をあらわすものでした。このことによって、私は自分が小さな頃から聞いてきた聖書の話が、また聖書が伝える神様がどんなに深くあたたかい存在だったのかがわかり、人生が大きく変えられたからです。

 

イエス様は、人の罪を背負って十字架に掛かり、復活し、新しいいのちを人に与えました。永遠に私たちと共にいることを、それも誰よりも近くで共にいることを約束してくださいました。そこに、神の示した最高の愛があります。この愛によって人を愛する歩みこそ、聖書が示す生き方なのだと思います。

神様は、神様の愛という実がなるように、私の人生を整えてくださいました。神様は私の経験した悲しみや困難を、恵みと喜びに変えられました。

 

ウェストミンスター小教理問答という17世紀にできたキリスト教の教理の問答書は、次の言葉からはじまります。

問一 人のおもな目的は、何ですか。
答  人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。

歴史の中で、様々な人々が人生の意味という問いの答えを語っています。私にとっては、自分のこれまでを振り返り、またこの先の歩みを思うとき、「人は神の栄光をあらわし、神を喜ぶために生きている」と宣言するこのウェストミンスター小教理問答の答えが真理なのです。

 

佐藤真理子(さとう・まりこ)
東洋福音教団所属。
上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
ホームページ:Faith Hope Love

 


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