教皇フランシスコを思う――美しき人生に感謝!~~フアン・アイダル神父インタビュー~~①


復活祭の月曜日に届いた前教皇フランシスコの逝去の報。それから、3か月、4か月と時を経る中で、一方では喪失感、他方では、カトリック教会において第2バチカン公会議とその精神を、自身の個性と人柄を含めて、豊かに多彩に体現してくれた教皇への親しき追慕の気持ちとが交差しているのではないでしょうか。『福音宣教』誌を通じて、少しずつ語られるようになった教皇フランシスコの生涯とその働きへの追想という心の営みを、今回は、この「AMOR」で展開してみます。

インタビューに応じてくださったのは、上智大学神学部教授 フアン・アイダル神父様。イエズス会の司祭であり、アルゼンチン出身。フランシスコ教皇となったホルヘ・マリオ・ベルゴリオ神父がブエノス・アイレスのサン・ミゲル神学院の院長であったときの神学生で、親しい教え子として日本の教会では知られています。すでにたびたびメディアにも寄稿されていますが、AMORもよくご覧いただいている神父様に、7月28日、初めてお話を伺うことができました。

 

私にとっては“復活”だった

――教皇フランシスコが亡くなられてから3か月が過ぎましたが、今、どうお感じになりますか?

はい、……感謝しかないです。教皇になる前も、なってからもほんとうにきれいな人生でした。感謝しています。

 

――実際に教皇になってからフランシスコさんには何度お会いになっていますか?

直接会ったのは、2回です。最初は、教皇に選ばれてすぐだったと思いますけれども、大学の何人かの教員と一緒にローマに行きました。そのときは、上智大学の創立100年の年でした。

 

――つまり、2013年、まさしく教皇選出の年ですね。

大学の高祖敏明神父様をはじめとする、教授陣により、就任祝いの旅のときでした。グループとしての謁見はバチカンの部屋でしましたが、私は朝のミサのあと、住まいであるサンタ・マルタで朝ご飯を一緒にして、彼の部屋で少しゆっくりとお話しすることができました。

 

――それが久しぶりにお会いになったことなのですね。

いいえ。久しぶりといっても、私は2011年にアルゼンチンに帰って、そのとき大司教(枢機卿)に会っていました。

 

上智大学神学部教授 フアン・アイダル神父様

――でも、長くご存じだった方が教皇になられて、お会いしたときはどんな感じでしたか?

それまでと全然違った気持ちになりました。私にとっては、……多分わかっていただけるかと思いますが、……「復活」みたいでした。

彼は、素晴らしい人ですが、そのためのことですが、同時に、いつも反対する勢力がいました。司教になったときも、政府筋からにらまれ、正しくないニュースも流されるなどしていました。いわば、十字架につけられているように感じていたのです。そのような、ベルゴリオ枢機卿の苦労、いわば受難を見ていたので、教皇として会ったときは、ほんとうに「復活」された、と思ったのです。

 

――それは、印象深いお気持ちとことばですね。

それはほんとうに神さまにしかできないことだな、と思ったのです。

 

――次は、2019年の訪日のときですね。お忙しかったことでしょう。

いいえ、それほどでもなかったですよ。そのとき、上智学内にあるイエズス会共同体の責任者でしたので、教皇様との食事とかバチカン大使館での食事とかでお付き合いがありました。むしろオフィシャルなことでの同伴者はレンゾ・デ・ルカ神父さんでした。

 

ベルゴリオ神父との出会い、感じた威厳

――訪日のときのことは、また、後でお聞きすることにして、今度はアイダル神父様の先生としてのベルゴリオ枢機卿との関係をお聞きしたいと思います。神父様はイエズス会に入って神学生となられたのですか、あるいは教区司祭を目指して、後にイエズス会に入られたのでしょうか?

18歳のときです。高校を出てすぐイエズス会に入りました。そして、サン・ミゲル神学院でベルゴリオ神父様と会いました。私にとって、イエズス会は理想的な会でした。ものすごく魅力を感じて入ったのですが、ベルゴリオ神父はいわばそのモデルでした。

イエズス会の魅力とは会員が人間的だということです。良い意味で何も捨てないというか……祈りもしますし、勉強も好き、芸術も好きです。そして神さまを大事にするのです。私は高校がイエズス会の運営する学校でしたので、イエズス会員の方の魅力に接することができました。もちろん、入ってみると、いろいろな人がいるのですが、そのなかでベルゴリオ神父は、幸いにイエズス会の理想を体現する方でした。神学や哲学の話をできれば、動物の世話もし、サッカーの話もできる。とても人間的でありつつ、神さまとの関係のことしか与えることができないという方でした。

 

――でも院長として出会ったのが最初としても、神学生として院長とはまだ距離があったのではないでしょうか。

最初は一言でいうと「こわかった」です。というか正確ではないかもしれません。とても尊敬する人のもつ威厳と言ったらいいでしょうか。自分はまだレベルに達していなかったし、ばかなことを言ってきらわれたらどうしよう、などと恐れる気持ちが少しありました。そのなかでも、少しずつ親しくなっていっていきました。

イエズス会では、神父になるためにはいくつかの段階、修練(2年)、哲学課程の前にラテン語、ギリシャ語、文学を学ぶ課程があり、それから哲学課程、そのあと、中間期というものがあります。社会に出て仕事をするという期間で、多くの場合、学校の教師となります。ちょうど、ベルゴリオ神父が神学院から、ある学校に赴任するときに、自分もその学校に送られたのです。イエズス会の会員は7人の小さな共同体で一緒に過ごし、私は学校で教え、彼は隣の教会共同体で司牧をしていました。生活も一緒にして、長く話すことができたのはその頃です。

 

――それは、深い結びつきですね。ベルゴリオ神父とアイダル神父様は30歳ぐらい離れているわけでしたから父親的な存在でもあったのではないでしょうか。

ええ、そういうところがありますね。私は18歳で入って、何もわからなかったですから。

 

リーダー・タイプだけに大切にした思い――幼いイエスの聖テレジアとのつながり

――校長とか、司教とか彼に与えられた働き場所を見ていると、とてもリーダーシップのあった方かと想像しますが。

ええ、とても、リーダーのタイプでした。そのように院長とか校長とかそのような役割を任せられていました。

 

――ところで、『福音宣教』誌に書かれた記事の中で、教皇フランシスコが幼いイエスの聖テレジア(リジューの聖テレジア)の写真を携えていたとありますね。テレジアについては『信頼の道』を書かれていますし、教皇フランシスコと聖テレジアのつながりについてお聞きしたいと思っているのです。今年はちょうど、聖テレジアの列聖100年にあたっているため、興味がありまして。

教皇フランシスコが2019年に来日したときの様子。東京・カトリック関口教会にて(ⒸCBCJ)

私もフランシスコとテレジアのつながりを感じることがあります。確かにフランシスコはテレジアが好きでした。私は、いろいろなところで、そのつながりを感じますが、一つは「喜び」ということだと思います。フランシスコは教皇になってからそのことを表し、いつも「喜び」をいっぱいに表していました。それはテレジアとつながるところだろうと思います。

それから、もう一つ思うのですが、フランシスコはさっきリーダー・タイプというお話をしましたが、彼はいろいろなことができる人でした。彼が言っていたのは、自分の誘惑はそのようなスーパーマンになることだった。やろうと思えば、この問題を自分なりに解決するとかなんでも自分でやってしまうという誘惑があったというのです。聖テレジアはその反対に信頼の精神でした。その精神が彼には必要な、ぴったりな精神だなと思います。

フランシスコはたとえばアビラの聖テレジアも好きでした。ただ、アビラの聖テレジアはあまりにもフランシスコに似て、やはり何でもできてしまう人でした。それに対して幼きイエスの聖テレジアは、教皇にとって必要な存在だったと思うのです。信頼とか、謙遜とか、自分の小ささを意識させる存在になりました。教皇になってから、いっそう幼きイエスの聖テレジアが大切な聖人となったのではないかと、私は思っています。

 

――なるほど、それはとても大切なポイントですね。

教皇フランシスコのよいところは、いろいろな本を読むことでした。そこから、例えば、聖イグナチオを引用していつも言う二つのことばがあります。一方では、世界を変えるため、神の国のために働くためには、態度として、世界の救いはすべての自分の責任であるかのように動かなくてはてはならない、と。しかし、ただ、世界の救いは100パーセント、神さまのものであるということです。

幼きイエスの聖テレジアはこの後者のことを思い起こさせることではないか。自分がいろんなことをやらなくてはならないのですが、それで世界が変わるのではない。世界を変えるのは知恵、神からの働きかけであるということです。そのような態度を、幼きイエスの聖テレジアから学び、いつも心にとどめていたのだと思います。

 

――ありがとうございます。今回は、神父様と教皇フランシスコとの出会い、そして彼の人柄、その関係での聖テレジアとのつながりというところをお聞きしました。後半は②でお届けします。

 


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