Doing Charity by Doing Business(27)


山田真人

前回は、螺旋状に進化していく教会の歴史の中で必要とされる社会司牧上の役割と、カトリック学校での活動を例にして、学生が活動の中で感じることのできるカトリック教会の役割について触れてきました。今回の記事では、前回の教会のマクロ的視点に加え、教会の個人に働くミクロの働きについて考えていきます。その上でキーワードとなるのが、予型論と召命です。

NPO法人せいぼ、学生スタッフの写真

予型論は、聖書の解釈において特に旧約聖書における出来事や人物に、キリスト教的な摂理に属する事柄の予型を見出す解釈方法で、歴史的記述と繋がっています。特に旧約聖書の預言者などがイエスの救いの摂理と繋がっていることを示すものです。例えば、旧約聖書に登場するイザヤは「苦しむ僕」「苦しみを通して神の民のために贖いをもたらす人物」として描かれ、その姿がイエスと繋がっています。予型論は、現代の私たちが歴史を越えて神の摂理と考えられることを信じるための補助的な解釈を与えてくれるものとも言えます。聖書以外の他の文学でも、予型論的な解釈は多く見られます。例えば、『アンクル・トムの小屋』は南北戦争時代を背景にした奴隷の姿を、トムという奴隷に反映させて、その姿を旧約聖書の「苦しむ僕」を連想させることに繋げています。

次に、召命という言葉を考えていきます。聖書で予型論を使って取り上げられる人物の多くは、特徴的な召命の物語を持っています。旧約聖書で最も古い預言者のモーセやエレミヤが、その召命のシーンの中で神への恐れの姿勢とともに描かれるのに対して、イザヤだけは積極的にその神による預言者としての使命を受け入れています。モーセは「自分にはできない」と何度も拒否し、4度も言い訳をしており、エレミヤは「私は若くて話せません」と恐れを見せますが、神が「恐れるな」と励ますことでやっと受け入れていきます。一方のイザヤは「わたしはここにおります。わたしを遣わしてください」と自発的に名乗り出ることで、預言者としての使命を得て、その後バビロン捕囚を背景とした歴史の中でもイスラエル民族のアイデンティティを支えるリーダーとして最も長く働きます。

このように、聖書は多くの形で召命物語を描いてきましたが、それによって役割を得た人物が、現代でも信仰を持つ人に影響を与えているため、その生き様が現代の文脈にも司牧的なリーダーシップの要素を与えることができるように、予型論は働いています。そうであれば、私たちが日々の生活の中で人との出会いや受けた言葉、さらにはミサの中での聖書の言葉が、自分の召命物語として感じられ、社会で生きていく上での役割の自覚に通じることもあると思います。また、教会に関わる活動や優先的に取り組む社会活動をすることで、自分の召命を感じるヒントにもなるでしょう。

最後に実際にNPO法人せいぼと実践司牧の活動を通して、召命について考えてくれた学生の言葉を紹介して、終わりにしたいと思います。

 

NPO法人せいぼ学生ボランティア、上智大学国際教養学部4年、平野健太郎より

私が「召命」という言葉と、せいぼでの活動を結びつけて考えるようになったのは、ごく最近のことです。就職活動やインタビュー、あるいは後輩から「なぜせいぼで活動しているのか?」と聞かれる中で、自分の人生を振り返る機会を持ちました。明確な「きっかけ」があったわけではありません。ただ、これまでの歩みの中の数々の点が、いま一本の線として結ばれ始めているのを感じています。

マラウイ共和国貿易産業大臣をエスコートする、NPO法人聖母学生代表、平野健太郎

出発点は、小学生時代に暮らしたメキシコでの経験でした。モンテレイというメキシコ第3の都市に住んでいたのですが、豪邸が並ぶエリアのすぐ近くには、スラム街のような貧しい地域が広がっていました。小学生と幼いながらも「なぜ生まれる場所や家族が違うだけで、人生がこんなにも違うのだろう」という問いが、子ども心に深く刻まれました。

その後、日本に帰国し、カトリックの中高一貫校に通うことになったのも、大きな転機でした。そこには「仕える生き方、自己犠牲の精神」への小さな導きがあったように思います。そして高校生のとき、ある先生を通じて山田さん(せいぼ理事長)と出会い、現在の活動へとつながりました。

大学では上智大学国際教養学部に進み、開発経済学や国際会計学を学ぶ中で、マラウイの現場と日本の支援をつなぐ活動に関わるようになりました。英語を用いての活動や、財務分析のような活動も、今ではすべてが「与えられた贈り物」であり、「備えられていた道」だったと感じています。

幼い頃の出会い、教育の環境、人とのつながり。すべてが神の計らいであり、私の召命とは「いま世界で困っている人たちのために、自分自身に与えられたスキルやリソースで仕えること」なのだと、気づかされました。今後もこの小さな召命に、誠実に応えていきたいと願っています。

 


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