古稀を過ぎて3年になりますが、少しずつ老いゆく身体の衰えを感じます。なんでも65歳以上の6〜7人に1人が鬱病だとのことです。前期高齢者の一人であるわたしもその仲間に入るのかなあ、としばし目をつぶって思案中。そして、AMORの編集仲間にカトリックで高齢化についてなにか資料がないものかと尋ねたら、『高齢者の尊厳と使命』教皇庁 信徒評議会(カトリック中央協議会)という本があるよと教えてくれました。
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『高齢者の尊厳と使命』によれば、国連は1999年を「国際高齢者年」と宣言しています。そのテーマは「すべての世代のための社会をめざして」とされています。
1998年、国際高齢者の日のメッセージで、コフィー・アナン国連事務総長は「すべての世代のための社会は、高齢者とか年金暮らしだと軽視せず、それどころか、彼らを発展の原動力であり、受益者だと見なす社会です」と強調しています。
『高齢者の尊厳と使命』には、「前期高齢期と後期高齢期の様相は、高齢者の数ほどあり、また、人はおのおの自分の全人生をかけて、老いはわたしたちと一緒に育ちます。わたしたちの老年の質は、単に人間的な面にしろ、なんといってもわたしたちが自らの老いの意味と価値を、いかにつかむかにかかっています。ですから、高齢期を、愛にますます神の摂理の計画のうちに位置づけ、キリストが御父の家へとわたしたちを導かれる旅路だと思って、これを生きねばならないのです(ヨハネ14・2参照)。信仰の光を浴び、欺くことのない希望に強められて(ローマ5・5参照)、初めてわたしたちは老いをたまものとも任務とも思い、ほんとうにキリスト教的に生きることができるでしょう。寄る年波にもかかわらず前進しつづけることができるのは、精神の若さという秘訣です」とあります。
そして、「祈り」がお年寄りの力となると言います。つまり、「祈りをとおして、高齢の人たちは、他の人々と喜びと苦しみに参加し、孤立の壁を打ち破って、無気力な不毛な状況からの脱出を可能にします」とのことであり、「祈り」は、高齢の人がどのようにして観想者になりうるか、という問題につながる重要性を持っているとされます。それは「老い衰え、体力の限界に達した高齢者は、寝たきりのままで、その祈りによって一人の修道者、隠修者ともなり、世界を抱擁します」とあり、教皇ヨハネ・パウロ二世の「パレルモで開かれたイタリア教会第三回大会の講話では「刷新は、それが社会的なものであっても、観想から生じない刷新はないからです。祈りのうちに神と出会うことは、歴史の中に力を導き入れ……、その力は多くの心に触れ、回心へ、刷新へと導き、まさにその中で、社会的構造を変革する歴史的な巨大な力となります」と発言されています。
教皇ヨハネ・パウロ二世のこの言葉は、「歴史」というものをもう一度わたしたちは捉え直さねばならないということを示唆されているように思えます。
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精神的な健康生活をするには古代ギリシア人が言うように「作業(健全な生産活動)、そして散歩、そして入浴」とのことで、私は作業(読書+映画鑑賞など)と散歩と入浴(銭湯詣で)を欠かしません。
冬の日差しを浴びながら、それでも少し春の訪れも感じながら、いつものように早稲田古書店巡りから甘泉園に行き、池の前に佇みました。そこでは、今日も亀ちゃんが石の上で日向ぼっこをしていました。
古稀を迎えたときに、井上洋治神父が次のような詩を残してくれています。
しずかに しずかに 眠っている
え、なんだって
ねむってるんじゃあないんだって
お祈りしてるんだって
ごめん ごめん
あ、そうか お祈りしているんだよね
じゃ ぼくも一緒にお祈りしよう」(亀くんのお祈り 1996年2月28日 甘泉園公園にて 『風の薫り』より)
今年の2025年はカトリックでは「聖年」となっています。フランシスコ教皇は「希望の巡礼者」というメッセージを出されました。わたしは「高齢者としての旅路にある巡礼者」であり、希望は「祈りとしての力」として感じたいと思っています。
「風の家」からの風のそよぎを受けながら、亀ちゃんと一緒に、わたしもそっとお祈りをしました。
鵜飼清(評論家)