こころ


あき(横浜教区)

前回「いきること」というテーマでお話ししました。生物は「食べて」「寝て」「排泄」し、「子孫をもうける」。
生物としての進化は“そのうえで成立している”ということでした。
また「いつ死んでも悔いの無いよう今を精一杯生きるというのが、生物一個体の生き方である」。あるお坊さんのお話でした。
今回は「こころ」をテーマにお話しさせていただければと思います。カトリックの平信徒の個人の考えですので、教えと相違がありましたらご勘弁ください。

 

「こころ」

「こころ」って何でしょうか。
どこにあるんでしょうか。
つかみどころのない「こころ」ですが、昔聞いた科学者のお話ですと、「こころ」は、人間の体は全て電気信号で制御されており、五感から得られた情報や、過去の情報などが体を巡る際に集約されたひとつの反応であるとの事でした。よくわかりません。(笑)

「こころ」は人間だけにあるのでしょうか。
わたしの飼い犬FATAは、わたしが会社から帰ると尻尾を振って飛び上がり精一杯喜びを表現しますし、朝わたしが目を覚ますと、わたしのすぐ横に自分の寝床を引っ張ってきてすやすや寝息を立てているFATAを見つけます。

先日も、ある家で捨てられた子猫を先住犬が我が子のように舐めまくったりしているニュースがありました。
全ての生物に「こころ」があるかどうかわたしには認知できませんが、単に生存本能だけではなく、生物には「こころ」を感じる瞬間がよくあります。
そう考えると「こころ」は人間の専売特許ではないようです。

また人間にも生存本能があります。
人は、集団や個体の生存に不安を覚えたり、自分の立場に固執したり、また思っていたように物事が進まないと無理にでもそれを押し通すような行動をとります。
ともすると、それは生存に固執するあまり他者を押しのけたり排除したりする行動のようです。人間には108の煩悩があるといいますし、五欲(食欲・財欲・色欲・名誉欲・睡眠欲)があるとも言いますね。
これは集団や一個体が自分の生存に係るものについてとる行動のようです。
ある意味、それは生物としては当然の行動とは思います。
ただ、皆さんも個人の欲だけにまみれた貪欲な人間にはなりたくないのではないでしょうか。
そんな人生は寂しいのではないでしょうか。

わたしの近隣駅のロータリーにバスが入ってくるとき、わたしはバスがスムーズに入ってくるように手前の横断歩道で待っていることがあります。その脇を「わたしが先よ!」とばかりに、ロータリーに入ってくるバスの前をわが身で制してバスを止め、どんどん横断歩道を渡っていく人たちがいます。
よく考えれば、「バスがロータリーの所定の位置に停車しないと自分の乗るバスも来れないのという事がわからないのかなぁ」と思いながらも「わたしが先よ!」と自分優先の行動をとる人たちが多いのも事実です。

朝の満員電車、ドアが開くと我先にと人津波が雪崩込み、満員状態でも「私一人だけ」と足を突っ込み、人を押して体をねじ込む風景をよく見かけます。
皆さんは、そんな光景を見たことは無いでしょうか。
そんな「自分が先」の人をわたしは、「わたしが先症候群の人たち」と呼んでいます。
この症候群の病気を持った人たちは、色々なところで見かけます。英語で「ミーイズム」と言うそうです。きっと英語圏にもたくさんいるのでしょう。

行動の端々に他より前に出たがる人々。
言うときりがありませんが、生存本能が見え隠れする人たちの名場面をよく見かけます。
他の人の行動を見て、自分の立ち位置に不安を覚え、競争したり逆に攻撃したりする行動。人間には多かれ少なかれありますが見苦しいものです。彼らの「こころ」は生存本能と不安・ミーイズムに捕らわれた人間に思えます。
こんな行動をよく聞く言葉でいうと「エゴ(エゴイズム)」というのかもしれません。

古代から人間は宗教戦争で争ってきました。神さまは争いを求めていません。
争っているのは「自分こそ正しい」と周りを認めない人間たちです。
最近の侵略戦争も同じ。
人間はともするとエゴの塊になります。
戦争だけではなく、個人の立ち位置を振り返っても同じようなことがあるのではないでしょうか。

改めて。
「お説教のようで面白くない!」と思わずに、ここまで読んでいただける方々はきっと自分を素直に客観的に見ることができる方々と思います。
自分を振り返ることができる方は素晴らしいと思います。
大切なのは「自分に正直になる事」。
また機会がありましたら「自分に正直に生きること」をお話ができればいいかなと思います。

日本には「信用」「信頼」をベースに作られてきた文化があります。
(最近ではそれも怪しいですが)
無人販売や回転寿司。
自動販売機がこんなに多く、また町のあちこちにキャッシュディスペンサーを見かけます。
互いに「信頼」している証です。
これからも日本が「信用」「信頼」をベースに住みやすい環境であってほしいと思います。

「こころ」は自分と自分の身の回りの環境をも含めた他者との関係の中に存在します。 この世界に自分だけが存在しているとしたら、きっと「こころ」はないのではないでしょうか。
皆が相手の事を思い、自分の「こころ」を他者との関係性も含めて周囲の世界に広げ豊かにすることができたら、きっと新しい世界が開けるでしょう。
生存競争だけに捕らわれず、「こころ」ある世界を信じて生きる。
皆がそんな気持ちで生きていけたら。

「きれいごとばかり言ってんじゃないよ!」と思うかもしれません。(笑)
当然わたしにも煩悩があります。
それを諫める力が「謙虚」と「反省」という力です。 自分で行き過ぎたことに気が付いたとき、「反省」しイエス様を思います。
わたしは聖書のイエス様を意識する時、通常の人間にはたどり着けないような大きな「やさしさ」を感じます。
どうしようもない人間にわが身を捧げたイエス様。
その言葉にいろいろな教えを思います。
他の生物の事は、わたしにはわかりませんが、人間にはイエス様がおられます。

わたしは人生の終焉を迎える前に「生きること」を意識し、「こころ」を意識したいと思うようになりました。
次回は、「やさしさ」です。
「やさしさ」という言葉。
皆さんはどんなイメージを持つでしょうか。

(つづく)

 


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

1 × five =