森 裕行(縄文小説家)
東京のストーンサークルについて前回お話したが、3500年位前にストーンサークルを作り、700年間くらい宗教祭儀を少なくとも冬至のときに行ったということは確かなようだ。さらに出土した土偶が海を渡った北海道の函館近くの土偶とそっくりなことから、どこで作られた土偶かが研究されている。東北で作られたと仮定しても半端でない距離を旅し多摩に勧進したのだろうから、世俗的ではない何か。そしてその思いを支える人々がいたことは確かなのだろう。旅する縄文人についてリアルに迫っていきたい。
3.旅する縄文人1/2
臨床心理学を学ぶと自己分析をすることが出てくる。私が学んでいるU先生はシカゴ大学やイギリスの大学に縁が深いが、自己分析の仕方はユニークだ。生育史を五感や喜怒哀楽の感情。さらに真善美を中心に分析していく。すると、人生の分岐点になるような出来事は、大切な人の死やまさかというような事件がきっかけに、非日常的な印象を持つ体験が多く、旅につながるイメージがあるように思えてくるのだ。
私の場合で恐縮だが、生き甲斐をもって仕事こなしていた中年のころの私が、ある時に父が亡くなり、それから立て続けにいろいろな問題が起きたことがあった。そんな中で何十年もご無沙汰していたカトリック教会にふとしたことで訪ね、高校生くらいからご無沙汰していた母が信じていたキリスト教に戻ることがあった。こうした経験はいろいろな方のお話をお聞きすると、日本の伝統宗教でも同じようなことはあるようで、そういう経験が縄文時代の祖先にもあって、何百キロも離れたところに巡礼に行ったりすることも当然あるように思った。非日常的な体験は不思議に注意力がはたらき、五感が活性化しリアルな体験が、真善美の世界と不思議につながったりする。
さて、8年前に私が縄文に開眼した後、いろいろ遺跡や博物館めぐりをしたが、比較的行きやすい山梨県、長野県の遺跡を訪ねても交通の便が良いところや、有名なところに偏ってしまい、新鮮な訪問が少なくなった時期があった。その時出会った「御朱印帳 三十三番土偶札所巡り」。札所(博物館や資料館など)だけではなく周辺の遺跡にも足を延ばせ、巡礼をイメージする御朱印帳自体も好きだったので、さっそく求めて回り始めた。
その巡礼の旅で出会った北相木村の栃原(とちばら)岩陰遺跡。約10,000年前の縄文早期の遺跡である。私の住む家の近くにも大塚遺跡という早期の遺跡があり住居址が3つ見つかっていて調査報告書を読んだりしたことも興味を増幅してくれた。
北相木村は八ヶ岳東麓で群馬県にも近い標高1000mを越える山村。冬には-10℃にもなると言われる。交通も高速道路で簡単に行けるわけではない。
では、2021年に訪問したときの写真や藤森英二氏の「信州の縄文早期の世界 栃原岩陰遺跡」(新泉社 2011年)および北相木村考古博物館報を参考に紹介していきたい。
遺跡や博物館の前には相木川の清流が流れる。相木川は東の御座山(おぐろさん)に発し西進した後、千曲川に合流して古代から中央政権とつながりの強かった佐久平を経て信濃川に向かう。このあたりは昔の八ヶ岳の火山活動による泥流で谷がいったん埋められ、その後の川の蛇行により浸食されてできた岩陰が多い。栃原岩陰遺跡は1965年に輿水利雄氏と新村薫氏によって発見され、その重要性から1987年に国史跡の指定。1992年に北相木村考古博物館が開館された。
栃原岩陰遺跡は岩陰遺跡ということで通常の遺跡と異なり、生活のために焚火をした灰により酸性土が中和され、人骨をはじめ有機物の保存状態が非常によく、タイムカプセルのように当時のありようを探る遺物が多く、今も研究者によって研究が進んでいるのだ。
北相木村考古博物館には信じられないような縄文早期をはじめとする展示があった。当時の食生活、狩りや相木川での魚釣り貝の採取。海の民などとの遠方交易の貴重な証の数々。子供が亡くなる落盤事故の悲劇。埋葬や魂への思い。詳細は次回に上のジオラマからお話ししていきたい。縄文早期という時期のせいか、土偶はないようであるが、それ以上の熱い想いがそこにはあるような気がした。
最後に有史時代の旅する詩人の歌を次に。旅のイメージは時代や場所は変わっても共通の何かがあるように思えるからだ。
なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる
(西行)
天の海に 雲の波立ち 月の船 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ
(万葉集 巻七・雑歌。1067 柿本人麻呂歌集)
谷川の水を求めて あえぎさまよう しかのように、
神よ、わたしは あなたを慕う
(詩編現代語訳 詩編小委員会 あかし書房P136 詩編42より)
次回は、「旅する縄文人 2/2」