可愛い可愛い私の子


片岡沙織(東京都清瀬市在住)

出産を経験して、早3年が過ぎました。私の双子の息子たちは、病院通いを重ねながらも、すくすくと元気に成長しています。母になった今、改めて自分の中の大切なイエス像はどんなものかと問われたら、私はまず一番にこう答えたいと思います。「可愛い可愛い私の赤ちゃん」。ちょっと言いすぎでしょうか。

私の出産と育児は今の今まで、嵐のようでありました。双子の子をお腹に授かったと知り、不思議な思いでいるのも束の間、様々な理由から妊娠7ヶ月で管理入院と相成り、8ヶ月で破水。その後はあれよと小さな小さな赤子が、1人はとりあえず無事に、もう1人は瀕死の状態で産まれてきました。NICUでたくさんの管に繋がれて、小さな身体で必死に生きようとしている彼らの姿を、今でもよく覚えています。やっとそれぞれの体重が2000gになって退院した後も、たくさんの山を越えてきました。そんな彼らも今やちびっこギャング。走り回って、ケンカして、互いに讃え合ったり、笑い合ったりして、楽しそうな毎日を送っています。

彼らを育てていて、たびたび「なんでこんなに愛してくれるんだろう。信頼してくれるんだろう」と思います。彼らが産まれる前までは、赤ちゃんは“まっさら”な存在だと思っていました。何もわからずに産まれ、親が教え導かねばならないものだと。しかし、彼らを産み育ててみて、そうじゃないのだと知りました。彼らはたぶん産まれる前から、私を一番に信頼し、愛してくれていたのだと感じます(パパには少し悪いけど)。

私は、自分が良い母であるとはあまり思いません。それでも、どんな母親であろうと無かろうと、子どもたちは絶対に諦めないで私を探し追い求めてくれるのです。神様はそのような存在だと聞きます。私が知る前から、神様は私を愛してくださっており、神様が私を忘れたり諦めたりすることは絶対にない。それを実感させてくれたのは、私の場合は自分の赤ちゃんでした。

片岡沙織筆

双子のベビーカーは目立つようで、道端でよく声をかけられます。中でも多い言葉のひとつが「幸せにしてくれてありがとう」です。声をかけてくださる方は、ご自身の子どもや孫を思い出しているのでしょうか。ご自身が確かに愛されて、言葉はなくても大好きだと全身で伝えられた過去を思い出しているでしょうか。私もそうです。赤ちゃんのイエスを見ると、私の息子たちが、ぎゃあぎゃあと全力で愛を伝えてくれる幸せを、生まれてきてくれた感謝を、胸に思い起こしてしまうのです。

聖書には「私の子」という言葉が何度も出てきます。子どもを持つまで知らなかった親の愛情を、この言葉に感じるようになりました。可愛い可愛い私の子。私の愛する大事な子。何よりも大切な私の赤ちゃん。そんな深い愛情を、神様が子を呼ぶ度に想うのです(神の愛は、人間のそれをはるかに凌駕し包み込むものなのでしょうけれど。)

ですからクリスマスは、心からの感謝が沸き起こります。「神様、こんなに愛してくれてありがとう! 私たちのところに生まれてきてくれてありがとう! 私の可愛い可愛い赤ちゃん!」と。

 


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