この日を楽しみ喜ぼう。 詩篇118篇21~24節


佐藤真理子

これは主が設けられた日。この日を楽しみ喜ぼう。

(詩篇118:21~24)

この世の価値観には、苦行や我慢に対する美徳を謡うものが多くあります。特に日本には「滅私奉公」という言葉がある通り、自分を殺して何かに仕えることが染みついている部分があり、教会もまた例外ではありません。勿論、人生には困難がつきもので、それを乗り越えることで大切なものを得ることができます。

ただ、時折「楽しむことに対する罪悪感」のようなものが人を支配してしまうことがあるのを感じます。これが生き方や宗教的価値観をつくりあげてしまうと、私たちにとって大切な喜びが奪われてしまうのです。苦行によって救いを得るというのは信仰によって救われる恵みを否定しかねない考え方です。また、勿論贅沢や散財に陥ってしまうことは問題なのですが、日本のキリスト教においてそのような問題を抱えている人は滅多に目にしません。

それ以上に日本の教会、特に教会で働く人々やその家族には、楽しんだり豊かに生きようとしたり休もうとすることで生じてしまう「様々な罪悪感」という問題のほうが根深いように思います。私がこれを訴えるのは、これが人の命を奪いかねないほど大きな問題であると思われるからです。

 

神様は私たちに祝福を与える方です。神様は私たちに無駄に苦しい人生を送ってほしいとは望んでいません。創世記を読むと、人が原罪に陥る前の世界の状態が記してあります。世界は良いものとして、人は極めて良いものとして創られ、神の恵みの中で、必要は全て備えられていました。寧ろ、人が自分自身に必要と考える以上のものを神は備えてくれており、人は本当に幸せに神との世界を楽しんでいました。

しかし、人が善悪の知識の実を食べ、罪に陥り、神と断絶されてしまうと、その喜びは奪われ、苦行の中で生きることになりました。イエス・キリストは、この神と断絶された世界の中で、再び神との関係を回復し、エデンでの幸せを私たちが取り戻すための架け橋なのです。勿論信仰を得たことで困難なことや様々な迫害はあるかもしれませんが、その傷さえも益としてしまう深い恵みの中で正しい道に導かれ、必要がすべて備えられる生き方が、キリストを信じる者の道なのです。

神様は私たちに我慢の連続で苦しんで生きてほしいなどとは思っていません。幸せに、喜びに満ちた人生を毎日笑顔で過ごしてほしいと思っています。

 

神学校に入ってすぐのGWで、当初私は大学時代の友達との旅行に行く予定だったのですが、入学してから教会の聖会と重なっていることが分かり、ほぼドタキャンのような形で旅行を断り聖会へと行きました。聖会で奉仕があったわけでも、誰に聖会に行くことを強制されたわけでもありませんでした。にも関わらず、当時は教団の神学生が聖会に行かずに友達と、ましてクリスチャンではない友達との旅行なんて、周りも自分も許さないと考えてしまったのです。私は神学校入学時から、これから自分にとって楽しいことはセーブしていかなければならないというおかしな勘違いをしていました。

そんな調子で神学校生活を何年も送り、自分の体と心がおかしくなるのを感じてやっと自分の愚かさに気づきました。

体調不良などもっと別の理由があれば話は別なのですが、突然旅行を直前にキャンセルして人に迷惑をかけても聖会に行くのだから自分は正しいことをしているんだという考え方もどうかしているし、ましてキリスト教でない友達を切り捨てるような行動をしようとしたなんて、カルトに陥った状態とほぼ変わらないではないかと今では思います。

今なら、神様はすべての人を創造し愛しているのだから、クリスチャンがクリスチャン以外の人と関わりを持つことをとても喜んでいるのだと分かります。勿論クリスチャン同士の励まし合いはとても大切で素晴らしいものですが、そもそもクリスチャンか否かという境界線を作って必要以上に意識するのがおかしなもので、神様は人とのつながりに宗教による優先順位など設けていないのです。そんなことをすれば福音が無意味な壁に囲まれてどこにも届かなくなります。

私は、自分と一緒にいる時間を喜んでくれる人々よりも、自分が所属する組織にどう思われるかをあまりにも気にして、おかしな考え方をしてしまったと思います。

 

私はこれまで多くの牧師家庭の子供たちと接してきました。牧師先生やそのご家族は、必要は必ず主によって備えられる、ということを自らの経験と共に私に教えてくれました。それと同時に、牧師家庭特有の苦しみも私は知ることとなりました。勿論例外はあれど、多くの場合そういった家庭の子供たちは生まれた時から豊かな暮らしに対する我慢を強いられている部分があり、これが人によっては無意識のうちに楽しそうに自由に生きる人への嫉妬となって表面化されてしまうことが度々あるのです。すると、ハラスメント問題に発展してしまうことがあります。

私が以前関わっていた教会で、牧師のお子さんが留学することに対して、そのお母様が教会員に対して何か申し訳なさそうにしているのを目にしたことがあります。

正当に捧げる人の喜びによって備えられているものであれば、献金で支えられている人々がそれに対して後ろめたさを感じる必要は何ら無いのではないかと思います。(勿論、明白な形であれ分かりにくい形であれ、献金が強制や同調圧力からなされる場合は健全性が大いに欠けていて、その場がカルト化している可能性があるので注意が必要です。)

 

また、教会やキリスト教組織で働く人や重要な役割をそこで負っている人々は、無意識のうちに自分が教会のために犠牲となることを自らに強いているところがあります。「神のためだから」という理由で問題視されづらいのですが、本当に神のためなのか、神のために始めた「組織のため」となっていないのか考え直す必要性があると思います。

というのは、こういったことによる過労死の例を実際に見たり聞いたりすることがこれまで何度も私にはあったからです。残された家族の苦しみは想像を絶するものです。神様のために始めたプロジェクトであっても、そのために人が苦しみ死んでしまうなどということを神様が望んでいるわけがないのです。神様は安息日を設けられました。しっかり休むことで、はじめて人は健全に生きていけるからです。そして、手を止めなければできない神様との交わりがあり、それこそが人の生きる糧なのです。

 

コロナによって教会は「本当に必要なことだけ」を行うことが余儀なくされました。おそらく、教会の中でそれまで教会に関わる人々の心を必要以上に騒がせたり負担をかけたりしていたものがノイズとなって、本当に大事なものを見失わせていたことに対する神様の警告だったのではと思います。今、少しずつ世の中が元の状態に戻ろうとしている中、教会は神様がパンデミックの中で示してくださったことをしっかり受け取る必要があるのではと思います。

特に、教会のために忙しくすることがアイデンティティとなってしまった働き手に、神様は、例え何もしていなかったとしても「あなたの存在自体に本来の価値がある」というメッセージをもう一度しっかりと受け取ってほしいと願っているのだと思います。

 

素直に心に従って、休んだり、苦しめるものから離れたり、自由になったり、楽しんだりといったことを、神様は禁止していないどころか、ぜひそうするようにと勧めてくださっているのだと思います。

神様こそが、誰よりも私たちの存在を喜び、私たちが健康に健全で喜んで生きることを望む方だからです。

 

神様は私たちに喜びの人生を送ってほしいと願っています。楽しんで生きてほしいと願っています。神様はこの世の素晴らしいもの全ての創造者です。喜びや楽しみ、人を嬉しくさせるもの、美しい景色、人を笑顔にする全てのものの創造者です。それを思いっきり享受して生きることが私たちの役割です。今一度忙しくしている手を止めて、その止めた両手で、しっかりと神様の愛を受け取って生きていきましょう。

 

佐藤真理子(さとう・まりこ)
東洋福音教団所属。
上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
ホームページ:Faith Hope Love

 


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