佐藤真理子
主は生きておられる。ほむべきかなわが岩。あがむべきかなわが救いの神。
(詩篇18篇46節)
主のご復活おめでとうございます!
「主は生きておられる。」この言葉は聖書の中に何度も何度も登場します。人が主を信じるのは、聖書が単に「良い価値観」を示しているからではありません。それが現実だからです。神学者であり、ナルニア国物語の作者のC.S.ルイスは「キリスト教は、もし偽りであるなら、まったく重要ではなく、もし真実なら無限の重要性を持つ教えである。ただ一つありえないのは、ほどほどに重要であるということである。」(ニッキー・ガンベル『アルファ人生の疑問』アルファ・ジャパン、2003年、16頁。/ C.S. Lewis, Timeless at Heart, Christian Apologetics)と述べています。キリストは現実だからこそ、重要なのです。
例えば、人は生きるのに酸素を必要とします。それを知っていながら、「人に酸素は必要ない。」「人は水素だけを吸って呼吸する。」「酸素が必要な人もいればそうでない人もいる。」というような発言をする人はいないのではないかと思います。キリストを世に送った神がいること。キリストが現実に地上を生き、今なお復活して生きているということは、紛れもない現実なのです。だからこそ、その啓示である聖書も事実を示しているのです。これが真実ならば、中途半端な重要性を持っているのではなく、真実としての、無限の重要性を持っているということなのです。
私たちが主を信じているのも、「現実に」「生きている」キリストに出会ったからだと思います。風は目に見えないけれども、確かに存在していることがわかります。それと同様に、目には見えないけれども、心に圧倒的な光をもたらすキリストが確かに存在すると確信することができるから、私たちはキリストを信じたのです。
ここ数年、また最近は特に、いろいろなニュースによって将来に不安を抱える人、情報に混乱してしまう人、希望を失って日々を過ごしている人も多くなってきたように思います。しかし、主は既に「世に勝った」と聖書に宣言しているのです。先のことは人にはわかりません。けれども、先のことは心配しなくても良いのです。なぜなら、「神があなたを愛している」からです。
キリストがなぜ世に送られたのか、それは神があなたを愛しているからです。愛しているから、罪を私たちに負わせずに、神が代わりに背負って、私たちを赦したのです。
「神が私を愛している。」
この単純な事実を私たちはすぐに忘れてしまいます。だから、この言葉を何度でも何度でも受け取る必要があるのです。私たちが神を愛していれば、先のことを知る神は、いま生きてあなたの隣にいるキリストを通して、あなたを助け出します。詩篇91の言葉は、まさしく今の時代にぴったりだと思います。
私は主に申し上げよう。「私の避けどころ 私の砦 私が信頼する私の神」と。(2節)
わざわいはあなたに降りかからず 疫病も あなたの天幕に近づかない。(10節)
彼がわたしを愛しているから わたしは彼を助け出す。(14節)
私たちの仕事はただ主の愛のうちに平安に過ごすことです。神を求めることは、ほかのすべてに先立つ最も大切な祈りなのです。神様に愛されているのだから、私たちは何も恐れる必要はありません。
先のことは、私たちを愛して希望の計画を持っている主にまかせましょう。信仰とは信頼です。それは、「何か素晴らしいことが起こる」と神様の平和の計画に信頼して歩むことです。だから、私たちは与えられた一日を、生きている主と共に喜んで過ごしましょう。主に信頼している限り失望する必要はありません。どんな時も希望を持って歩みましょう。
先日、以前友人がプレゼントしてくれた本から、素敵な言葉を見つけました。
朝が明けて、陽が高くなって、やがて日が暮れてというふうにだんだんと変わってゆく何でもない一日が、平凡すぎて退屈なだけの一日どころか、本当はとんでもなく大切な一日であり、ありふれた奇跡と言っていいような、かけがえのない一日であるということ。
(長田弘『なつかしい時間』岩波書店、2013年「一日を見つめる」234-235頁)
この一日は、奇跡の一日です。今あなたの誰よりも傍で生きて働く主とともに、今日を過ごしていきましょう。
佐藤真理子(さとう・まりこ)
東洋福音教団所属。
上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
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