佐藤真理子
彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ。」見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ。」と言った。エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。
(列王記上19章4-8節)
今回とりあげた聖書個所は、旧約に登場する預言者エリヤがイゼベルからいのちを狙われて逃亡し、荒野で疲れ果てたときの出来事です。あまりの疲れに死を願うと、御使いがやってきて彼に食べ物を与え力づけ励ます場面です。イゼベルは北イスラエルの王アハブの后で、バアルの熱心な信奉者だったので、バアルが偽りの神であると証明したエリヤに激怒し殺すと脅迫しました。エリヤはこの脅迫から逃れるため荒野に逃げ込み疲れ果てましたが、天使に励まされ再び歩みだすことができたのです。
エリヤの状況は他人事とは思えません。私はこれまで命こそ狙われるようなことはありませんでしたが、神様に従って歩もうとするとき、あきらめそうになる経験をすることが何度もありました。
例えば神学校時代はオーバーワークによるバーンアウトやハラスメントから精神的また肉体的ストレスが限界に達し、退学したくなったことがありました。
そのときに必死に励ましてくれたのは神学校で共に学んでいた友人でした。その友人も同じく神学校でつらい思いを共有してきたのですが、やめようとする私を必死に「卒業することで得られる信用がある。」と説得してくれました。踏みとどまった私は無事に神学校を卒業できたのですが、友人が言ったことは本当でした。神学校を出たことで牧師としての自分の働きを信用してもらえることを実際に体験しました。あのときやめなくて本当によかったと、心から思います。
また最近は神様の導きで決めたある進路のために必死で受け続けた試験で、やはりあきらめそうになったことがありました。一年近く時間を勉強に費やしてもなかなか突破できず、それが三度目になったとき、計画を練り直すことを考え始めました。かなりいろいろな負担の大きい試験なので、これ以上続けられないかもしれないと思いました。今年の夏までに突破しないと間に合わない計画があったのですが、このままでは見通しが立たないと思い来年に持ち越すことを考え始めました。
そのとき私を励ましてくれたのは家族でした。とにかくあと一回今年受けたらどうかということを確信をもって勧めてくれました。あと一回というその試験は三回目にだめだったという結果を受け取ってから三週間後の日程でした。一年近く勉強しても結果は変わらなかったのに、三週間で結果が変わる可能性はほぼ無いだろうと思いながら今年最後の受験を決めました。しかし、いざもう一度だけ受けてみようと決めると、曇っていた気持ちが晴れ晴れとし、なんだか涙が出そうになりました。そして「気づかなかったが、心の底では私はもう一度チャレンジしたかったんだ。」と自覚しました。
その結果、四度目にしてやっとその試験を突破することができました。試験を二度落ちたときから、毎日詩篇37の言葉を読み続けました。三度目に落ちたときは読むのをやめたくなりましたが、落ちても読み続けました。
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」
(詩篇37:5)
何度落ちても読み続けると決めていましたが、勉強を本格的に開始してからちょうど一年後の四度目の試験でやっと突破できたとき、やはり御言葉は正しいのだと改めて信じることができました。神様は最善の時に道を開いてくれるのだと改めて実感しました。
人には、神様から指し示された道を歩むとき、あきらめる誘惑にかられることがあります。祝福に満ちた道であるほどに、あきらめたくなることも多くあるかもしれません。私は退学したくなったときも、試験を受けるのを一旦休止しようとしたときも、先が見通せないような、あたかも先に途方もなく長い道が続いているような気がしていました。しかし、もう無理かもしれないというところで、神様は友人や家族を通して、エリヤを御使いが励ましたときのように私を力づけてくださいました。
私には見通せなくても、神様には先が見えています。実際あきらめなかったからこそ、あと一歩のところを突破することができました。退学しようとしたときも卒業目前の時期でしたし、試験をあきらめようとしたときも、その三週間後には目標を突破できました。本当にあきらめずにいてよかったと思います。
祝福が待っているときこそ、あと少しのところで時にはあきらめろというサタンの誘惑があるかもしれません。でもあともう少しだけ続ければ、道は開けるのです。
何かを成し遂げるまでの道のりには困難や多くの努力が必要かもしれません。何度も失望して、神様を疑う気持ちが出てくるかもしれません。しかし、神様は誠実な方です。あきらめずに信じ続ければ、主は生きていると実感するときが来ます。必ず時が来て、祈りにこたえられるのを私たちは目にします。ハバクク書にある通り、神様は決して遅すぎることはありません。
「もし遅くなっても、それを待て。必ず来る。遅れることはない。」
(ハバクク2:3)
エリヤは天使から励ましを受けると再び歩き出し、ついに神の山ホレブに着きます。エリヤは主である神に、自分が神に仕えてきたこと、イスラエルの人々が不信仰に陥り預言者を殺し、自分の命も狙われていることを語ります。すると神はエリヤに自分の前に立つように言われます。
「見よ。そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火ののちに、静かにささやく声が聞こえた。」
(列王記上19:11-12)
神はそのささやく声で、エリヤにこれからすべきことを伝え、主の裁きが行われること、またバアルにひざまずかなかった者を主が心にとめていることを伝えます。
私はこの荘厳な場面が大好きです。山を裂くほどの力を神が持っていることが示されつつも、エリヤは簡単に主に出会うことはできません。しかし岩が砕かれ地震があり火が起こった後、やっと静かなささやく神の声を聴くことができるのです。
神様の声は、こちらが耳をすませなければわからないときがあります。しかし、耳をすませば、神様の静かな声が励ましてくれているのがわかります。神様は私たちを愛しています。ですから、エリヤを御使いによって力づけたように、もうだめだというときにきっと私たちに助けを送ってくださいます。あと少しというところであきらめずにすむように励ましてくださいます。神様の語る声は静かな声かもしれません。しかし耳を傾ければ、主が生きて働いているのを目にするときが来ます。エリヤを励ましたのと同じ神は、生きて同じように今も私たちを励まされます。疑いたくなったとき、もうだめだというとき、あと少しだけあきらめずに信じてみませんか。主は生きています。
佐藤真理子(さとう・まりこ)
東洋福音教団所属。
上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
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