片岡沙織
先日、祖父が帰天しました。97歳でした。
私が祖父と最後に会ったのは、2週間前くらいだったでしょうか。祖父は病院のベッドで眠っていましたが、看護師さんが「お孫さんが来ましたよ」と起こしてくれ、「さおりちゃんか? よく来たなー、家に帰って羊羹でも食べようか。こづかいあげないとな」と喜んでくれました。温厚でまじめで、かわいいおじいちゃんでした。
祖父は茨城県阿見町の出身で、祖父の家のほど近くに、霞ケ浦と陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地がありました。私が小さい頃は、よく祖父と一緒に基地周辺を散歩したり、霞ケ浦を眺めに行ったりしました。自衛隊にはたくさんの戦車が並んでいて、子どもながらにすごいな、かっこいいな、と思っていたのを覚えています。祖父は定年前は郵便局で働いていました。優しい人で、怒ったところを一度も見たことがありませんでした。いつも何かといえば祖母にお小言を言われていましたが、「怒られちゃったよ」とニコニコして、祖母や家族を大切にしてくれる人でした。
私が大人になってから、祖父がふと、戦争のことを話し始めました。今から10年前くらいのことです。その時初めて、祖父が戦争体験者だったということを知りました。私が小さい時は、戦争のことなど話すものではないと思っていたのか、それとももっと話すことや考えることがあって忘れていたのかわかりませんが、祖父が戦争の体験話をふとし始めたことがありました。
陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地はかつて、旧日本海軍航空隊の基地でした。そしてそこでは、海軍飛行予科練習生(通称「予科練」)として、現在の中学生から高校生くらいにあたる少年たちが、航空機搭乗員として養成されていました。祖父は予科練習生ではありませんでしたが、練習生と共に基地の中で整備工として生活していました。
祖父はその予科練習生との思い出をふと思い出し、語り始めたのでした。
「少年たちが食堂で食事をしていた時、一人の少年が食事中ふざけちゃってな。そしたら、兵隊さんがその子のとこにきて、その子の頬を何度も何度もひっぱたいてな。バチンバチンと何度も何度もひっぱたいてな。その日の夜、その子のお母さんが呼ばれててな。あぁ、ダメだったんだなと思ったんだ。」という話でした。子どものころはそんな話をしたことのなかった祖父が突然、戦争の話をし始めたのでした。それまで温厚で優しく平和に生きてきた祖父の人生に、そのような時代があったのだと、私は初めて知ったのでした。それからというもの、度々祖父は戦争の話をしてくるようになりました。
「俺は航空隊の飛行機をたくさん整備したんだ。赤とんぼ(日本軍の練習機)が殆どだったけど、ゼロ戦も触ったことがあってなぁ」
「軍人さんたちはよく、ここらでウサギ狩りしてな。軍服が素敵でな」
「戦争に負けるころには、新潟の方に逃げて電報打ちをしていたんだ。戦争が終わった後は、郵便局員にしてもらってなぁ」
「戦争はなぁ、するもんじゃないなぁ。あの人たち(予科練生)は、かわいそうだったなぁ」
など、たくさんの戦時中の思い出を語るようになりました。
普段コミカルで可愛らしい祖父が、戦争の話を語るときは、少し雰囲気が変わりました。何か昔の空気を今に呼び込んでいるような、時にエネルギーに溢れて、時に悲しみにくれて。私にとって、祖父は混迷の時代を生き抜いた、歴史の証人でした。
そんな祖父は、周囲の人たちから大変愛されていました。先日の祖父の葬儀には、たくさんの人が集いました。祖父の子どもたち、孫たち、ひ孫たちも。もちろん私の子どもたちも参列しました。悲しい悲しいお別れの時間でしたが、子どもたちの存在は、残された私たちの心の支えになりました。葬儀は仏式。お坊さんがお経を唱えている間に子どもたちは、次々と椅子からずるずる落ちていき、「まだ終わらない?終わった?」と呟き続ける子どもたち。
終いには祖父の棺に、皆でお花やお手紙を入れている最中、終わったら食べようねと握らせておいたおやつを、大人の真似をして棺のなかに入れてしまいました。私は「しまった」と思いましたが、ふと会場が笑いに溢れたのでした。みんなで涙を流しながらクスクス笑い、「天国へ行くまでのおやつだね」「おやつ好きだったもんね」など祖父を囲んで、皆で泣き笑いました。
終戦を記念するこの8月、1人のやせっぽちの戦争を経験したおじいちゃんが人生の幕を閉じました。戦後80年。「戦争はするもんじゃないなぁ」。シンプルだけど実感のこもった祖父のこの言葉が、私たちの肩を叩いて問いかけているようだと、そう感じるのです。