古谷 章
戦後生まれの私は当然のことながら戦時中にラジオ放送を聞いたことはない。けれど、あくまでもアーカイブスとしてのものではあるが、1945年の終戦の日の「玉音放送」や、その4年前の12月8日の開戦を知らせる「臨時ニュースを申し上げます……帝国陸海軍は本8日未明……」という放送はテレビやラジオ、あるいは映画などで何度も聞いた経験がある。私に限らず、日本人にとってリアルタイムにせよ後の録音を聞いたものにせよ、戦争に関するラジオ放送と聞いてまず思い浮かべるのはこの二つの放送ではなかろうか。
しかし、私にとってアーカイブスではなく戦争に関わるナマの放送として忘れられないのがNHKラジオで放送されていた番組、「尋ね人の時間」だ。さまざまな人からの投書に基づき「旧満州○○省○○市にお住まいだった○○さん」とか「○○連隊で一緒だった○○県出身の○○さん」などと呼びかけてNHKに連絡するよう伝えていた。
この放送番組は1962年3月末で終了しているので、1951年生まれの私にとってはちょうど小学校4年修了時(10歳)までの間に聞いた経験のはずだ。しかし、抑揚のないアナウンサーの淡々とした話し方は今でも耳に残っており、またその放送中の家の中の雰囲気も記憶から消えていない。
結婚前の私の父が戦後のシベリアに抑留されていたことをはじめ、何人かの親類や知人の消息がまだ判っていない時に、父の母(つまり私の祖母)がこの番組を聞いていたところ、父の長兄の妻がラジオのスイッチを何気なく切ってしまったので祖母が激怒して一騒動あったという話を後年になって聞いたことがある。そんなこともあってか、私が物心ついたころには身内には「尋ね人」を必要とする者はいなくなっていたはずだが、ラジオからこの放送が流れている時は家の中に不思議な緊張感が漂っていたことを子ども心にも覚えている。
改めてこの番組のことを調べてみると、放送開始は終戦後1年近く経った1946年7月で、終了は先述の通り1962年3月だから16年間にわたる放送だ。
このほかにも軍人や軍属、それに開拓民などが外地から引き揚げて来る情報を伝える「復員だより」という番組が1946年1月から47年2月まで、「引揚者の時間」が47年7月から57年3月まで放送されていた。
戦後の混乱が収束していくに従い、それらの番組を集約する形で「尋ね人」の放送が戦後17年近く続いたことになる。「もはや戦後ではない」と謳った経済白書が発行されたのが56年7月だが、その後も6年近く「まだ戦後ではない」とばかりに戦後処理の一端を担っていたのがこの番組と言えよう。
しかし、終戦直後の放送開始のころは半数近くの消息が判明していたものの、判明率は年を経るにつれ大幅に下がってしまったという。そしてどのような力学が働いたのかは判らないが、1961年の年度末をもって終了ということになった。
放送されたもののうち、トータルでは4分の1ほどの消息が判明したそうだが、残る4分の3の人々に思いを馳せざるをえない。そして消息が判ったケースでもそれがすべて「ハッピーエンド」だったとは限るまい。
戦後の大変な混乱期ではあったが、後に撤回されたものの、終戦時の海外在留者はそのまま現地に留まらせようとした日本政府の動きばかりでなく、中国での新国家建国に伴う国交断絶、ソ連のスターリニズムによる人道無視の政策など、さまざまな要因が人々の人生を翻弄し狂わせてしまったのだ。官民を問わず、終戦時に海外にいた人はもちろんだが、国内にいても空襲などにより音信の途絶えてしまったケースは限りなくあるはずだ。
戦争の被害と言うと、○○作戦で○○人の戦死とか○○の空襲で○○人犠牲、あるいは引揚時に○○人死亡と「一括り」にされがちだが、そこには生身の人間がいるのだ。亡くなった一人一人にスポットを当ててみると、そこにはそれぞれの異なった悲劇があるはずだ。
それと同様に、「尋ね人の時間」で取り上げられた事案を思い起こす時、「生き別れ」あるいは「死に別れ」を問わず、番組の向こう側にはさまざまな形の悲劇が生まれていたことが容易に想像できる。そして日本の戦後処理は、その悲劇にどこまで真剣に向き合って来たのかと考えると暗澹たる気持ちにならざるをえない。