森 裕行(縄文小説家)
今から10年前の2015年。新宿区歴史博物館で「新宿に縄文人現る」という展示会があった。私が幼いころから青年期まで住んでいた四ツ谷坂町から、歩いて20分くらいだろうか。今の市ヶ谷防衛省の北側の加賀町二丁目遺跡から、縄文時代の人骨(12号人骨)が発見され、それを中心にした展示会であった。12号人骨は約5000年前に40歳台で亡くなった男性で、縄文中期後葉の加曾利E2の初期ごろの土器などと共に、廃屋の中に手厚く伸展葬で埋葬されていた。腰にはマイルカの下顎骨の貴重な腰飾りが置かれていて、当地でのリーダーと考えられた。
通常であれば200年くらいすれば人骨などは、火山灰の影響で酸性の日本の土壌では溶けてしまうが、それが都心で残るのは奇跡的と言われた。どうもこの加賀町二丁目から川を下って5kmほどが海なので、住人はヤマトシジミやカキなどの貝類を食べ、貝殻が覆土に残り酸性を中和したようなのである。科学技術の進歩で、当時の食事の傾向や頭骨陥没のケガの実態、ミトコンドリアDNAでの祖先調査などもあり、リーダーの人生に深く思いを寄せ、それが後日の拙書「森と海と月」に繋がった。
私は比較宗教学と比較文化論をベースにした心理学をU先生から学んでいたので、彼の身体だけでなく、人格形成や魂について思索を重ねた。その市ヶ谷のリーダーは40歳代ということで、エリクソンの人格形成論からすると、次表の8つの段階の7つ目の「世話」まで生き抜き、同胞から惜しまれつつ亡くなったのだろう。
そして今、私は縄文時代に詳しい師や友に恵まれ、よりリアルな彼の生涯を考えることができるようになってきた。加曾利E式の時代。それもE2の初期、新地平編年で11a、今から約4800年前である。そのころは10000年以上続いた縄文時代の中でも中部高地・関東南西部の文化圏では遺跡数が最も多い時期。そして、この市ヶ谷あたりは中部高地の文化圏を東関東の文化圏が覆いつくそうとする地域であり、集団のアイデンティティを維持する上で市ヶ谷のリーダーは難しいかじ取りを任されたかもしれない。
ここで、アイデンティティという言葉をもう少し掘り下げてみたい。まずは、個人におけるアイデンティティとは何か。私は中学から高校と進学し青年期に突入したが、学生運動の盛んな時期でもあり、「自分は何のために生きているのか」とアイデンティティの問題で悩んだものだ。家族など周りからの眼。自分でしか分からない自分の傾向。あるいは、我が身に背負った運命のようなものに翻弄され、混乱するわけである。その中で、忠誠心を向けるべきSomething(それは哲学や宗教のような一面をもつ)に出会うことで成人期への道を進める。一方集団のアイデンティティも同じようで、共通の価値観を固め連帯を築くことで、困難を生き抜く集団に育っていく。
今回は市ヶ谷のリーダーにも縁があった、中部高地・南西関東の文化を中心に連孤文土器や背面人体文土偶について考えてみたい。以前「縄文時代の故郷」でふれたが、妊娠から子育の誕生土偶は中期中葉でぱったりと絶え、若い女性を思わせる土偶が中部高地に登場する。土偶は祭祀や宗教に関係する第二の道具と考えられ、縄文人のアイデンティティに深く関係すると考えても良いと思う。
私は地母神信仰が当時の宗教の基本と考えるが、縄文の祭儀を考える上で、人の誕生から死までをライフイベントとしてとらえ、祭儀を想定するのが分かりやすいと思う。その中で縄文中期中葉の土偶を考えると、女性を中心に結婚、出産に関わる成人に焦点があたっていたのではないだろうか。それは食と性や豊穣とも深く関わる。そこに焦点が当たっていた。それが中期後葉となると大きく変わる。井戸尻考古館の坂上遺跡の土偶に象徴されるように、結婚前の青年期女性にスポットライトが当てられた背面人体文土偶の時代になってくるのだ。独特の文様が身体の前面、側面、背中に連続して沈線で描かれているので、ボディーペインティングか入墨とも関係がありそうである。
結婚前の青年女性の祭儀は何を意味するのか。松本直子氏は「縄文のムラと祭儀」(岩波書店 2005)で未婚の女性が社会的に重要となるパラオの民族事例を引用して、部族の勢力を維持・拡大する動機が中期後葉にあったのではと推定している。
また、安孫子昭二氏は連孤文土器の出現は加曾利E(新編年10)が登場したてのころの土器文様は南西部も東部もそれぞれの文様傾向(曾利、加曾利)を残す余地があったものの、E2の時代(新編年で11)になると東関東の加曾利系の伝統が幅を利かせ西は表現しにくくなり、これを補うために連孤文土器が登場するとした。
さらに、関東南西部は山梨方面から土偶を勧進し補完することになったとしている。土偶の出土傾向は、連孤文土器の中心エリアをⅠ群とし周辺をⅡ~Ⅳに分類すると、相模川上流域から多摩丘陵北部、武蔵野台地南縁のⅡ群からⅠ群の領域付近に土偶の濃分布がみられる。こうして、連孤文土器や背面人体文土器の盛行の理由を西関東勢力のアイデンティティの回復運動とし、東関東の勢力に対抗したとされていて、大変説得力がある。
少し難しい話になってしまったが、この辺りは当時の社会構造がどうなっていたかという難問に繋がるのでここでは深入りしないで、土偶祭祀を行う側、特に中心人物の心中を考えてみたい。家族だけでなく集団組織の政治的繁栄を願うリーダーや宗教上のリーダ(巫女/神官)は日常の中で自らの存在理由をどう考え、他部族の興隆にどう対応したのだろう。こうした集団のアイデンティティの問題を見つけたことは、大きな考古学の成果であると思う。
以前「縄文時代の故郷」で八王子市の72や446Bの事例を取り上げたが、今回は八王子市南大沢駅の近くの多摩ニュータウンNo.300遺跡(以下300遺跡)を取り上げてみたい。
300遺跡は縄文中期後葉を主体とする京王線南大沢駅そばの遺跡。大栗川水系(太田川)と境川水系にはさまれた痩せ尾根に作られた遺跡で、縄文中期の最盛期である4800年前ごろ200年位使われた。ただ、村の西側など自然災害等の影響で3m近くずれ落ちているところもあり、村の全体像は把握しにくい。300遺跡のムラでは連孤文系の土器の他、中部高地(長野、山梨)の曾利系土器、東関東の加曾利Eの土器も出土し、加曾利E2の段階で連孤文が加曾利Eを浸食する形で盛んになる。そして、背面人体文土偶の背中にあるエンブレムは、地域独特のアイデンティティとなっているようで、書き順があり、黒曜石のようなもので、おそらく尊敬を集めるリーダーにより一気呵成に書かれ当時の多摩のアイデンティティを物語っている。
さらに、土器や土偶のほかにもボディーペインティングや入墨などを集落の若者などにも施したのではあるまいか。
南大沢のリーダーは背後の中部高地の曾利系の勢力を強く意識し土偶祭祀をしたが、市ヶ谷のリーダーは、東関東の文化圏には土偶は当時無かったこともあり、土偶祭祀をしなかったのではなかろうか。「新宿に縄文人現る」展での土偶不在の意味も市ヶ谷のリーダのアイデンティティの表現なのかもしれない。
*全体に安孫子昭二氏の「縄文中期集落の景観」、300遺跡は山本孝司氏執筆箇所の「新八王子市史資料編Ⅰ多摩ニュータウンNo.300遺跡」を参照させていただきました。感謝申し上げます。