インタビュー:前田万葉 枢機卿に聞く


前田万葉枢機卿(左)とききて。

2018年に枢機卿に任命されて在職7年目に入られている前田万葉枢機卿様を大阪高松大司教区本部(大阪市中央区玉造)にお訪ねし、お話を聞いてきました。カトリック中央協議会の事務局長(2006~2011)の頃にお会いしたことがあり、広島司教(2011年)、大阪大司教(2014年)、そして枢機卿になられてからはさまざまな式典で拝見していたものの、直接、お話を聞くのは初めての機会となりました。

事前にお送りしていた質問事項について丁寧にメモを作ってくださっていたことも嬉しく、ありがたいものでした。写真で知られるとおりのにこやかで穏やかな風貌そのままに、さまざまな話題について率直にお話しくださいました。

(ききて:AMOR編集長 石井祥裕)

 

――枢機卿様、お久しぶりです。きょうは、よろしくお願いいたします。今回AMORでは「枢機卿」をテーマにしており、実際、どのような職位であるのか、など、直接教えていただきたくまいりました。早速ですが、任命されるまで、枢機卿というものについてどんなイメージを抱かれていましたか?

一般に言われているように教皇顧問ということは思っていましたが、私は長崎教区出身ですので、里脇浅次郎長崎大司教が枢機卿になられたとき(1978年)、いよいよ日本のカトリック教会の代表になられたのだな、と思っていました。

 

――ご出身は長崎、五島ですね。

はい、今の新上五島町、教会でいえば仲知小教区の出身です。広島の白浜司教も同じです。

 

――日本人として土井枢機卿、田口枢機卿についで3人目の里脇枢機卿様ですね。どんな方でしたでしょう。

私自身、堅信は山口愛次郎司教から受け、神学生のときが里脇大司教でした。思い出があるのは、高校を卒業するとき同級生と3人で、福岡サン・スルピス大神学院ではなく上智大学に行きたいと里脇大司教にお願い立てしたときのことです。大学へのあこがれがあったのです。それに対して大司教様からは「じゃあ、神学校をやめるか」と言われ、あっさりと断られたということがありました。

 

――カトリック新聞などで写真を拝見するかぎり、とても謹厳な方という印象を持っていましたが……

確かにそうでしたが、厳しそうでありながら、優しい方でした。平戸の宝亀教会に赴任していたとき、大きな台風が来て、教会の屋根が落ちて、腰を抜かしたことがありました。里脇大司教に報告したら、すぐに修理のための補助金をくださったのです。ポケットマネーからの援助でした。そのような気持ちのある方でした。

 

――それでは、いよいよ、ご自身が枢機卿に任命されたときのことを教えてください。

まさに青天の霹靂(へきれき)でした。予想もしていませんでした。(2009年以降)日本に枢機卿はいながったので、だれかが任命されてくれたらいいなとは思っていましたが、まさかそれが自分になるとは、という思いでした。ちょうど2018年の5月20日、聖霊降臨の主日のことでした。私は、あの年のNHK大河ドラマ「西郷どん」が楽しみで、それを見ていたのですが、終わったころにスマホが鳴るので、出たら菊地大司教からの電話でした。「おめでとうございます!」と言うので、なんのことだろう? そのときピンと来たのは、大阪大司教区に二人の補佐司教をお願いしていたので、それが決まったのかな、ということでした(実際の任命は6月2日)。

ところが、菊地大司教が「枢機卿任命、おめでとうございます」と言うのです。「それは間違っていると思いますよ」と私は答えたのです。全然ピンとこなかった。すると菊地大司教が「インターネットにニュース出ています」というので、見たら確かにに出ているのですね。それでも、変なニュースではないかと、まだ疑っていました。(普通はあるはずの)教皇大使からの連絡もまだなかったからです。しかし、翌日10時頃に教皇大使から電話が来ました。そのときも向こうから「知っていましたか?」とおっしゃるのです。「わたしも知りませんでした」と。つまり、このような任命の知らせは、インターネットニュース先行になる時代なのです。同日に任命された枢機卿は全世界で14人いましたが、後で親任式のときに聞くと、半数くらいの方は、突然、インターネットニュースで知ったと言っていました。

 

――インターネット時代ならではのことですね。

少し形は違いますが、広島司教任命のときも、似たようなもので、まったく予期せず、先行内示などものなく、突然やってくるのです。(詳細は略しますが)うむを言わせないかたちで、任命が伝えられて、少し考えさせてくださいと言いつつも、受諾書には「おことばどおり、網を下ろしてみましょう。謹んでお受けします」と書いてしまいました。

大阪大司教任命のときも似たような状況でした。でもすべては、み旨であることと、「おことばどおり」の気持ちで受けてきています。枢機卿任命の時は、まさしく聖霊降臨の主日でしたので、聖霊とフランシスコ・ザビエル、そして高山右近にすがる思いで祈りました。

 

前田万葉枢機卿

――み旨に含まれる意味を考えられたのですね。

もしかしたら東京(土井枢機卿)、大阪(田口枢機卿)、長崎(里脇枢機卿)、そして東京(白柳枢機卿)と任命されてきたので(教区長大司教として)、次として大阪になったのかな、とも思ったこともあります。ただ、2018年という年は、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産として登録が決定した年でした(6月30日)。長い申請期間の実りを迎えようとしているとき、しかも、潜伏キリシタンをルーツとするという背景があったのではないか、また訪日を考えようとしている教皇フランシスコの目指されている核廃絶につながるために、被爆二世である自分に心を留めてくださったからではないか……こうした背景推測は何人かから指摘されたことでもありました。たしかにそのような意味があるのかもしれません。

 

――そうなのですね。それは深いことですね。そのとおりであることを信じたいです。そうしてなられた枢機卿の職位について今お考えのことがありますか?

この役目をいただいて数年立つ今は、エキュメニカル(キリスト教の一致を目指して教会・教派を超えた対話、協力を推進する活動)部門を担当していますし、諸宗教対話ということに取り組んでいたいと思っています。曾祖父が明治初期の迫害・弾圧の中で拷問を受けたという経験がありますし、自分自身も小学校時代に、カトリック信者の生徒が差別されることに対して抵抗したことがありました。身をもって他宗教や無宗教の人からカトリックが抑圧されてきた歴史の中から信仰や宗教の異なる人たちとの相互尊重や理解ということを考えていきたいと思っています。そのための日本社会からの期待や、陳情に対しても積極的に対応する覚悟でおります。

 

――諸宗教対話ということが、諸宗教を抽象的に上から見るようなことではなく、ご自身のファミリーヒストリーでのご経験から湧き出てきておられることなのですね。それは日本の場合、とても重要なことですね。

枢機卿でいると、教会の中だけのことではなく、外のいろいろなところからの依頼が数多くきます。たとえば、つい最近は、神戸市とフランスのマルセイユは友好姉妹都市となっていますので、その友好60周年記念行事に際し、求められて枢機卿紋章とサインの入った手紙をバチカンの諸宗教省長官に書くことになっています。能や神楽をヨーロッパで上演するなど、そのような企画は、諸宗教諸文化の交流につながることですので、橋渡しに努めたりしています。そのほかにも、どこかの平和行事において平和行進に参加してくれませんか、とか、何かの団体の理事になっていただけませんか、など、さまざまなリクエストが来ます。

 

――なるほど。枢機卿という職位は教会の中だけでなく、社会的、世間的にも重みがあるということなのですね。ところで、教皇の顧問としてのお役目はどのように展開してきたのでしょうか?

一番、印象深いことは、2018年の12月8日、マニラ大聖堂(創建1571年)の再建献堂60周年にあたり、教皇代理として出席したことです。枢機卿として6月28日に親任式をしたばかりの新米でしたが、マニラ大司教タグレ枢機卿により教皇代理として招聘されました。出迎えがものすごかったです。マリア様のご像の祝別などのセレモニーを司式しました。

タグレ枢機卿としては教皇に来てもらいたかったのだけれども、都合が合わずに代理を招くことになったとき、日本人の枢機卿にお願いしたいということになったそうです。タグレ枢機卿のお父さんは、戦時中、日本軍の銃で撃たれ、重傷を負ったという体験のある方。日本に対しても特別な思いがあったことでしょう。またマニラは高山右近終焉の地でもあり、そのようなことからも日本と深い関係があります。そのようななか、私のようなバックグラウンドのある人間が教皇代理を務めるということにも意義があったのだろうと思います。ちなみにこの大聖堂再建事業においては、日本の民間のセメント会社も尽力したという経緯もありました。マニラと日本の関係は深いものがあります。

 

――2018年は、大変な年だったのですね!

その同じ年の12月、バチカンに枢機卿親任への返礼教皇謁見に行きました。12月16日には、自分の名義教会で着座の式があり、日本から35名ほどの巡礼団と一緒の謁見を急遽お願いしたところ許可をいただき、翌日(12月17日)教皇執務室隣接の貴賓室に招かれました。前の日に巡礼団の中でだれかが12月17日は教皇様の誕生日(82歳)であることに気づき、急いでバースデーケーキを準備してありました。それも持ち込むことも許してくれて、貴賓室での謁見では、教皇も私たちの祝意を大変、喜んでくださいました。巡礼団のみんなで、「プリーズ・カム・トゥ・ジャパン!」と呼びかけると、「今のこれが、日本訪問の“食前酒”ですよ」と答えてくださいました。

そのあと、執務室で髙見大司教、菊地大司教、そして私の3人が謁見し、その中で教皇は翌年(2019年)の終わりごろに日本に訪問したいこと、東京、長崎、広島を訪問したいこと、核兵器について、諸宗教についてなど話したいと思っていること、どのようなメッセージを告げたらよいかなどのことを話されました。それから正式な準備が始まり、あの(2019年11月下旬の)訪日実現に至ったのです。

 

――前田枢機卿様は、教皇顧問としてのお仕事として、広報省の委員でいらっしゃるのですね。

広報省の委員メンバーとしては、2年に1回の広報省総会に出席します。最初に出席したとき、他の委員から聞かれたのは、日本の司教協議会に広報委員会がないのだけれど、それは他ではないことだ。どうしてなのか、ということです。以前は広報委員会があったのですが、諸事情でなくなっていました(1988年)。広報部という部署はあるが、確かに委員会はないのだと答えざるを得ませんでした。それに対して、ぜひ作ってくれ、という強い意向を受けてきたのです。このことを日本の司教総会で話しました。それがきっかけとなって、広報担当司教という役割を設け、大阪補佐司教の酒井俊弘司教が任命されました。それは、近い時期に広

報委員会を再び発足させてほしいという意味からです。今年の6月に正式にこれは再設置されることになります。

――このAMORはシグニスジャパンの関係者有志で始まったもので、私自身、今SIGNIS JAPANの副会長という役目にあります。いつも会報「タリタ・クム」には発行のたびにすぐお返事と励ましのことばをいただいていることに感謝しています。数年前から、広報担当司教としての酒井司教にはSIGNISの顧問的な位置からさまざまにお世話になり、協力していただいています。AMORでもちょうど一年前特別インタビューに応じていただきました。そうした動きの大元に、前田枢機卿様のバチカン広報省委員会での体験がおありだったのですね。

2回目の広報省総会からは、デジタル時代への対応ということが大きなテーマになっています。これは私自身ニーズのあることですが、通訳機能の進化ということです。私自身は語学が弱いので、バチカンの会議では最初、アベイヤ司教様、その後は、淳心会のスック神父様に通訳を頼んでいます。しかし、今では、AI通訳というのが開発されています。いわば日本語を話す前田という人間のそばに他の諸国語を話す前田といういわば“デジタル双子”を創出して機能させることができるようになるのです。その場合、カトリック用語や聖書のことばなどをAIに学習させて、教会での国際会議での通訳機能の充実を考えてほしいと訴え続けているのです。それらを含めてデジタル・ネットワーク、デジタル・コネクトの普及が話題となっています。

 

――今、日本のカトリック教会では、創刊100年を過ぎた「カトリック新聞」が週刊購読新聞としての役割をこの3月で終えようとしています。カトリック系の新聞や雑誌の曲がり角にありますが、これについては、どう思われますか。

「カトリック新聞」休刊が発表されてから、なくさないでほしいといった陳情のお手紙が私のところにもたくさん来ています。もちろんペーパーは形を変えて残しつつ、ウエブサイトでのニュース発信の充実を図っていくことになります。先ほど話したようにバチカンの広報省の関心事と同じで、この機会がデジタル・ネットワークやデジタル・コネクトというつながりに発展していくことを期待しています。老若男女みんなでつながり、谷間に置かれた人たちもともに、大きなネットワークやコネクトが発展することを期待しています。これがこれからの教会であってほしい、と思います。

 

――つながり、といえば、2023年、2024年に正式の世界代表司教会議の会期に至った近年の教会のテーマは「シノドス」ですね。

はい。シノドスのために全枢機卿が招集された会議がありました。そのときに、2025年(今年)の聖年のテーマが話し合われたのですが、多くの枢機卿たちが「希望」というテーマを口にしていました。私の入った分科会でも、座長はインドのオズワルド・グラシアス枢機卿でしたが、新米の私に気を遣ってくれて発言を求めてくれました。私自身も「希望というのは大切」といった趣旨の発言をしました。

 

――そうした準備セッションを経て、聖年のための大勅書『希望は欺かない』に至っているのですね。そのようなところに、枢機卿の教皇顧問としての役割があるのですね。

よく誤解されるのですが、枢機卿は日本の教会の代表ではありません。司教の上の存在と思われていることもあるのですが。日本の教会の代表機関は司教協議会です。そのなかに私は大阪高松大司教としての役割で参加しています。枢機卿としては、日本の教会に対しては教皇様への取り次ぎの役割、橋渡しの役割であるといったらよいと思います。

 

――今は大阪教区と高松教区が統合されて大阪高松大司教区としての歩みが始められているのですね。これは大変、画期的なことと思い、注目しています。

このこと自体は、1980年代から可能な道として考えられてきていたことで、その後、90年代、00年代とさまざまな出来事がありつつ、準備されてきたことだと思っています。司教たちにも福音宣教省―教皇庁大使館を通じてーアンケートがなされていました。また、本決まりになりそうなときには、私から、ぜひ大阪教区、高松教区の司祭たちにもアンケートを取って、その声を聴いてほしいと願い、そのように実施されました。そのアンケートの内容自体は公開されてはいないのですが、実際に統合が決定されるに至ったのです。

今この事業に取り組んでいる最中ですが、これは、まさに、シノドス性(シノダリティー)が意識化された世界代表司教会議のテーマ「宣教する教会―交わり、参加、そして宣教」ということと「霊における会話」というものの実践チャンスであると思っています。実際、少しずつ成果を上げています。気長に取り組むつもりです。

 

――ありがとうございました。枢機卿という立場について、また広報ということについてのお考えについて、また統合に取り組まれている大阪高松教区の現在についてなど、さまざまなことを学ばせていただきました。今後ともSIGNIS JAPAN、ウエブマガジンAMORについてよろしくお願いいたします。

 


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