片岡沙織
先日、私の友人が「結婚したよ」と報告してくれました。「でも、籍は入れてないけどね」と。
私は根掘り葉掘り聞きたくなる気持ちを抑え、少しずつ質問をしていきました。彼らは、某大企業で社内恋愛の末結ばれた、パワーカップル。結論から言えば、どちらかが名前を変える、ということがもはや考えられなかったということでした。ですから、彼らは「事実婚」を選んだということになります。同年代の彼らの選択に、私はとてもびっくりしました。彼らは10年以上お付き合いをしていましたが、私は「いつ婚姻届けを出すのかしら」、くらいにしか思っていなかったからです。
同時に、結婚とは、カップルのどちらかの姓を変えること、もっと言えば、多くは女性側が姓を変えるのと同じことだと思い込んでいたと気づかされました。そのような結婚の形がありえたのか、と。もちろん、事実婚やファミリーシップ制度、パートナーシップ制度があることは知っていました。しかし、自らがそのような選択をしたり、自分の近しい存在がそのような選択をしたりするとは、思ってもみなかったのでした。
このエッセイで使用している私の名は、旧姓です。今はもう使っていない、私の過去の名前です。結婚を機に、パートナーの姓に変えたのです。私の母も祖母も、当然自分の夫の姓を引き継いできたため、兄弟の中で次女である私もまた当然、結婚した際には、夫となる人の姓を引き継ぐことになるのだろうと、小さなころから考えてきました。それが幸せなことなのだと思い、何の疑問も持ってきませんでした。今でこそ、学校教育の場でパートナーシップ制度やジェンダー問題について扱うこともありますが、私の幼少期や青年期にかけては、そのような機会はありませんでした。
私が育った地域には、廃止されているはずの家督相続制度が、今なお活き活きと息づいているように思います。私には弟がいますので、物心がついたころには、当然弟が「家を継ぐ」存在だと、様々な場面で伝えられてきました。すべての家の財産は、弟のために整えられてきました。私は、弟が家族の長になる存在として大事にされていることを、子どものころから、心のどこかではうらやましく感じながらも、自分は何者にも縛られない自由な生き方が出来ることを、喜んでもいました。家族・親族から何も求められない、という状況は私にとってとてもありがたいことでした。
そして、私がいざ結婚をするとなったときも、誰も疑問を持ったりせず、争いごともなく、スムーズに事は運びました。私が新しい姓に切り替わり、新しい家庭が誕生しました。今、一つの姓によって、いざこざもなく、家族が一致して生活しています。
しかし、先述のように、友人から「事実婚」の報告を受けたときから、何かもやもやとした気持ちが顔を出し始めたのでした。私は、これでよかったのか?と。いや、これでよかった、何も後悔もしていないはず、それはそう思います。しかし、何か私の心の奥底に眠って蓋をしていた感情に、気づいたのでした。それが何なのか、今ならわかります。それは、「姓」を変えたときに感じた、私の心の痛みでした。その痛みを、私はなかったこととして蓋をして、今まで過ごしていたことに、気づかされたのでした。
実際、「姓を変える」、という作業は、途方もなく大変でした。そして、私の名前が登録されているすべてから、一つ一つ自分の名を消していく作業は、私にとって深い悲しみを伴う作業でした。これまで家族の中の一員であった戸籍からまず、自分を消していきました。新しい戸籍には、母と父の娘であった過去が記載されていますが、「片岡沙織」という人物は姿を消したのでした。それから、免許、住民票、国民年金、健康保険、銀行口座、クレジットカード、印鑑登録、各種保険、パスポート、職場等々、一つ一つ自分を消していきました。晴れて、新しい名前の自分になりましたが、この過程を経て、世の中から自分が消えていくことを嫌というほど実感したのでした。
そして、私が小学生のときにもらって嬉しかった絵画大会の賞状や、大学院生のときに泣きながら書いた論文も、さよならした過去の自分のもので、現在の私のものではないように感じる今があるのでした。「奥さん」という存在になったと言えば、とてもしっくりきます。私は結婚して「奥さん」になったのでした。「何者でもない奥に生きる存在」。誰かの所有物。姓を変えたという出来事は、私にとって、家族を陰で支える存在として生まれ変わること、そのように感じる出来事でした。
しかし、私は実際「奥さん」として「陰で生き」てなんていません。フルタイムで働いて、パートナーと協力して家庭を育み、社会生活を送っています。奥になんて、引っ込んでいられません。むしろ女性が奥に引っ込んでいる時代とは、遠い昔話の幻なのではないでしょうか。それなのに、いまだに女性が名前を変えて社会的なあり方を変えるなんて、時代と齟齬があるように感じます。現在、結婚して姓を変えるのは95%が女性側だと聞きます。「女性が当然姓を変えるべきだ」という暗黙のルールの上にこの社会の平安があるのでしょう。そのような暗黙のルール、大多数の人間の我慢の上に成り立つ平安とは、本当の意味での平安なのでしょうか。さらには、このような状況は、無意識的にではあるかもしれませんが、ジェンダーの平等性を欠く要因の一つになりうるのではないかと懸念します。
もしかすると、「姓」を変えるくらいで大騒ぎしすぎだ、と思われる方もいるかもしれません。しかし、「姓」を変更することに、深く傷ついた、という体験をした方は、私以外にもいらっしゃるのではないでしょうか。社会をスムーズに回すには、わからないふりをしていた方が都合がよく、ずっと我慢をすることが当たり前になってしまってはいないでしょうか。
私は、新しい自分の名前が嫌いなのではありません。パートナーや子どもたちと同じ姓でいられることに喜びや安心を感じます。何の問題もなく、家族が一致している平和もありがたいと思います。しかし、過去の私の名前を失ったことは、とてつもない悲しみなのです。この事実は、消すことが出来ません。愛する母や父との関係を断つ苦しみ、今までずっとその名前で生きてきた愛着のある響き、それらと別れることに辛さがありました。でも、我慢してしまいました。私さえ我慢すれば、円満になる。私にとって、名前を失うことへの我慢は、小さなころから刷り込まれてきた、女性が結婚するにあたっての常識でした。
聖書には「名」という言葉が数多く出てきます。たとえば
イスラエルよ、あなたを形づくられた方
主は今こう言われる。
恐れるな。私があなたを贖った。
私はあなたの名を呼んだ。
あなたは私のもの。
(聖書協会共同訳、イザヤ書 43章1節)
あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。
(同ルカによる福音書10章20節)
門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
(同ヨハネによる福音書10章3節)
などなど、挙げればきりがありません。そのような箇所を読むと、ふと、くだらないながらもこんなことを考えることがあります。いつか私が、神様と相まみえる希望のとき、神様は私の名をどの名前で呼んでくれるのだろうかと。
家庭を持とうとした際に、事実婚を選択することにも考えが及ばなかった私ですが、「姓」を理由に事実婚を選択することにも、何か違和感を覚えます。このことについては、さらに自らの考えを深めていかなくてはいけませんが、少なくとも今後、傷つく人がいない世の中を作っていけたらと願うのです。