森 裕行(縄文小説家)
お月見はなにかほっこりする。幼い頃祖母や母と庭先で見た十五夜。そんな思い出がどこかに残っているからかもしれない。しかし、この月見は何時頃から日本列島で始まったのだろうか。月に関する本を読んでいると、芋名月、栗名月、豆名月という縄文時代に恐らく大切にされた食材を冠にした月の名前がでてくる。そして、これらの名前のついた月は十三夜である。十五夜お月さんは明るく夜を照らすので一番目立つが、一つの変曲点でこれから欠ける月であるし、時には月食となりネガティブな感情と繋がりやすい。その点十三夜は美味しい栗や芋や豆に連想が動くし、しばらくすれば十五夜とポジティブな感情と結びつきやすい。その外、13は太陰暦を調整する大切な数、縄文時代中期に平行する中国・仰韶文化でも使われていたようで、縄文時代の人も意識していた可能性もある。
さて、縄文時代の子抱き土偶とイノシシや月、そして神話の関係などについて、先日、11月2日と9日に八王子市の川口町の郷土史のグループの方をはじめ市民の方々にお話しさせていただいた。夕方の5時半から7時までという時間帯にも関らず大勢の方が参加された。子抱き土偶が発掘された宮田遺跡の側という絶好の場所での夜話だったのか、不思議な? 熱気に包まれる会となった。9日は特に夕方は晴わたり、次の写真は別の時に撮ったものだが、川口川周辺の山の稜線の美しさに目を奪われた。
写真はおおよそ東西を流れる川口川(多摩川支流)を挟み、子抱き土偶が発掘された宮田遺跡から北側の中原遺跡。そして対岸の中原遺跡から宮田遺跡のそばの川口小学校や川口事務所を撮っている。
今回は宗教学者のエリアーデの新石器時代の宗教の特徴といった考古学とは異なる切り口も入れて、日本だけにとらわれず世界にも目を配って縄文中期前半の甲信・西南関東の誕生土偶を捉えなおし、豚の祭儀と新石器時代の宗教との関わりをのべ、子抱き土偶の新たな見方に踏み込んで行きました。
メラネシア、東南アジアなどでのハイヌヴェレ神話とオオゲツヒメ/ウケモチノカミなどの日本神話の類似性については神話学者や考古学者の多くが認めているところですし、日本の子抱き土偶の時代の土偶も女神で蛇との関係、あるいは臀部の突出は指摘され、栽培植物も豆類、エゴマなどの栽培植物が見つかっていて、塊茎植物であるヤマイモなどは腐りやすいために直接の発見が遅れているものの、各種分析から可能性が高いことが言われている。
イノシシの祭儀と子抱き土偶については、前回詳しくお話ししました。
イノシシ図像の中でも蛇が登場しますが、蛇は隣の仰韶文化をはじめとする文化の中で、死と再生をはかる象徴として使われてきたこともあり、縄文時代のイノシシの祭儀でもイノシシの死(食物)と裏腹に誕生の祈りも含まれていると考えると腑に落ちます。
さらに、豚の祭儀はヨーロッパなどで有名ですが、縄文時代のイノシシは家畜化されていなかったのではという疑問があるが、西本豊弘氏の「縄文時代のブタ飼育」国立歴史民俗博物館研究報告 第108集 2003年10月などの一連の研究があることを補足いたします。
この補足は、安孫子昭二氏からの貴重なご教授からで、深く感謝いたします。
さて、今回は子抱き土偶のもう一つの謎について語っていきたい。それはこの時代の月信仰に関わる謎である。子抱き土偶の破損した頭部を巡っての問題であり、以前AMORでも『⑦子抱き土偶の復元』で指摘したが、島崎弘之氏により多くの土偶が上方に視線を向けている事実である。勝坂期の月に関わる研究については小林公明氏、田中基氏(縄文のメドゥーサ 2006)、ネリー・ナウマン氏(生の緒 2005)、大島直行氏(月と蛇と縄文人 2014)などの研究があり、視線が月(女神の象徴)に向うと考えるのは自然である。そんなことから、筆者は子抱き土偶の母の視線も上方に向かっていると考えたが、実際の子抱き土偶の復元につとめた浅川利一氏は丹念な調査と自らの子抱土偶接合の経験から、左肩が落ちていることや割れ方から下方の子供を見つめているとした。
その結論から、母は母の血を引く子を見つめているということで、女神の内在と超越の問題を考えたり、同時代の例えば万蔵院台遺跡の両面顔面把手付き土器の視線を援用しようと考えたりしたが、文字のない社会なので誰もが納得できる図像表現が隠れているのではと考え試行錯誤した時、赤子の頭が単純に月のように見える図像が目に入った。それが八王子市提供の子抱き土偶の写真だったのである。体内から深い大きなヘソを通し出てきた月を抱いているようなのである。しかも形状はまんまるの月ではなく13夜の月(芋名月)のように歪んでいる。それから、この子抱き土偶は住居の南側周溝に逆位で見つかったので、本来北側に正位で設置されていたと仮定すると子供の頭は東方向となり、春の頃の13夜の夕べの月と祝祭を仄めかしているのかもしれない。ふと万葉集の草壁皇子に関わる柿本人麻呂の歌を思い出した。これは朝の歌だが夕に反対の現象もある。
東(ひむがし)の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ(万葉集1-48)
さらに、土偶の文化的背景について考察してみる。まず、ヘソの穴についてだが、これは何なのだろう。子抱き土偶と同じ誕生土偶の中の育児段階の土偶として石川県上山田貝塚の背負う土偶がある。
背負われた赤子の頭が歪んだ円形で、子抱き土偶の頭にも似ている。そして、その下の両腋下に二つの環形図像がある。これについてドイツの日本学者のネリー・ナウマン氏が『縄文時代の若干の宗教概念』(民俗学研究39-4 渡辺健訳)で取り上げ、小林公明氏が『五体に表された天体もしくは眼の図像』(光の神話考古 言叢社2008)で指摘したのは、この図像が古代中国を含む太平洋周域の図像や神話と深い繋がりがあることだ。中でも、北西アメリカの諸部族の神話や中央オーストラリアのアランダ族の神話から腋窩の天体に迫っているのは素晴らしい。さらに、私が7歳の時に両親と過ごしたシトカのクリンギット族やハイダ族の神話も出ており、星野道夫氏の「森と氷河と鯨」(世界文化社 1996)を読み返しハイダ族のワタリガラスの神話を見つけた(P68 『ワタリガラスと最初の人々』より)。地球を覆っていた大洪水のあと空腹のワタリガラスが、光を隠し続けていた老人からそれをだまし取り、三つの箱を取り放ち、太陽、星、そして月を空に散りばめた・・・とある。またクリンギット族の魂を得るために焼かれたワタリガラスの神話も興味深いがここでは割愛させていただく。今では失われた腋窩の天体の話が当時イキイキと伝承され、子抱き土偶の母の腋窩のヘソから月を奪い、それを慈しむという物語が伝承されていたのではないだろうか。
もう一つ、日本には残されていないとされるその神話。竹取物語の最後の場面も気になるが、日本神話が編纂される8世紀。女帝・持統天皇自らによる神格化された夫・天武天皇への挽歌。ひょっとしたら当時誰もが知っていたその神話の片鱗ではないだろうか。
北山に たなびく雲の 青雲の 星離れ行き 月を離れて (万葉集2-161)