「池袋モンパルナス」について


AMOR編集部

「池袋モンパルナス回遊美術館」(別稿も参照)という名称にある「池袋モンパルナス」とはなんでしょうか。この名は、小熊秀雄という詩人が名付けています。小熊秀雄の詩に書かれています。

池袋モンパルナス

池袋モンパルナスに夜が来た

学生、無頼漢、芸術家が街に出る

彼女のために、神経を使へ

あまり太くもなく、細くもない、

ありあはせの神経を――。

(小熊秀雄)

池袋周辺は大正末年から昭和にかけて様相を急変させました。関東大震災による近代的な都市化の影響で、都市の膨張が池袋にも及びました。それまでは葦やススキ、麦やダイコン畑が広がる長閑な郊外の場所でした。そこへ罹災者がやって来たり、交通網が整備されるなどの理由から人口が急増しました。

ミルクホールやバー、音楽喫茶が生まれると、美術家や音楽家、詩人、評論家たちが集まり、特異の文化圏を形成していきました。

池袋近辺には画学生を対象とした安価なアトリエ付き借家ができはじめ、そこへ若者が住むようになって、そこがアトリエ村という集落になっていきました。その集落は「すずめが丘」「さくらが丘」「つつじが丘」「みどりが丘」「ひかりが丘」といったアトリエ村、あるいはパルテノンとも呼ばれました。小熊秀雄もその住人の一人でした。

『―池袋モンパルナス―小熊秀雄と画家たちの青春』が2004年に練馬区立美術館で行われたときのチラシ。

小熊秀雄(1901年~1940年)は、北海道小樽市で生まれ、稚内、樺太、秋田などで少年時代を過ごしました。そして旭川で新聞記者として働き、詩、童話、挿絵、評論などを発表します。昭和3年(1928年)に東京に移住し、アトリエ村の住人になりました。

小熊たちは夜毎に芸術論を繰り広げ、既成の価値観にとらわれない自由な精神を培い、新たな創造への情熱を燃やし続けました。

しかし、日本が15年戦争に突入すると、アトリエ村の住人たちも戦争に駆り出される者が出てくるなど、芸術を謳歌する環境は失われていきました。

当時のアトリエ村で小熊秀雄が交流していた画家たちは、長谷川利行、靉光、麻生三郎、大野五郎、寺田政明、松本竣介らでした。このなかで、松本竣介は岩手県出身で、舟越保武との交流が知られています。

★参考書は展覧会の時の図録。

 


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