AMOR編集部
聖書の中で「高齢者」や「敬老」といったことは扱われているのだろうか――そんな問いを今回の特集にちなんで、投げかけてみました。日本語の「老い」「老化」「加齢」などには、人間としての生命力、能力の低下といった響きがありますが、同じ高齢でも「長寿」というと積極的な響きを持ち始めます。そのような人間にとって必然的かつ多面的な現象は聖書の中でどのように表されているでしょうか。聖書に登場する人物を思い起こしてみましょう。
アダムは130歳のときに男子を設けて、セトと名付けます(創世記5・3)。この創世記5章は、アダムの系統の人々が皆相当の高齢になってから子どもを得るという話の集成です。伝承の中の誇張なのだろう、と考えてパスして読みがちですが、そこにはやはり意味があるのでは、とも思わせます。聖書や神話などの専門家の教示を待ちたいところです。
有名な洪水が起こるのは、ノアが600歳のときと記されています(創世記7・6)。何かの象徴が含まれているのでしょうか。どなたか教えていただきたいです。
元の名はアブラム。彼が主から「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」(創世記12・1)と告げられ、主の言葉に従って旅立つのは75歳(12・4)。現実的な数に近いですが、それでも、神の召命を受けて、新たな人生を歩み始めるのがこの年とは驚きです。この場面を描く『ウィーン創世記』と呼ばれる6世紀の写本の挿絵(図1)も、しっかりとアブラハムを老人として描いています。
このアブラハムと妻サラについて、有名なのは主がマムレの樫の木の所で現れたという話です。このとき、暑い真昼にアブラハムが天幕の入り口に座っていると、三人の人がやってきます(創世記18・1-15)。サラがどこにいるかと尋ねたその三人のうちの一人が、来年もまた来るが、そのころには、サラに男の子が生まれていると告げます。創世記はこう語ります。「アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人は年老いているのに、と思ったのである」(18・11-12)。老人である事実を語る筆はかなり現実的です。
それに対して、「主は」、と突然主語が変わり、「主に不可能なことがあろうか」と語り、その約束を重ねます。イサクの誕生にまつわるこのエピソードの意味は何なのでしょうか。このエピソードは後に、三位一体の神の顕現の予型として解釈されて、絵画・イコンでも盛んに描かれることになります。
アブラハムとサラに約束された男の子は、アブラハムが100歳のときに生まれ、イサクと名付けられます(創世記21・2)。サラが笑ったときの笑いにちなむ名ということです(21・6)。そのイサクについて、創世記は老化を語ります「イサクは年をとり、目がかすんで見えなくなってきた」(27・1)。ここでまた一つの事件が起こります。息子ヤコブのある計略の話です。以降、ヤコブの話になっていき、その中でイサクの180歳での死も語られます。イサクは「高齢のうちに満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。息子のエサウとヤコブが彼を葬った」(35・28-29)とあります。
このように老化現象や高齢が語られる族長たちの歴史は、それ自体が“世代間交流”の物語でもあることに、今さらながら気づかされます。聖書全体をこのような視点で読んでいくと景色が変わっていくかもしれません。ヤコブは147歳(47・28)で死に、その12人の息子(12部族の祖)の一人ヨセフは110歳で死にます(50・26)。聖書はそれら亡くなったときの高齢さを克明に記しています。やはり見逃せない、興味ポイントです。
出エジプト記2章からモーセの生い立ちが語られます。モーセは成人したのち、エジプトを逃れてミディアンの地に行き、羊飼いレウエルのもとにとどまり、その娘と結婚します。したがって召命を受けるのは壮年期ということになると思いますが、そのあとの有名な、あの壮大な歴史を経て、モーセの死が語られるのは申命記34章。「モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった」と語られています。
その後は後継者ヨシュアの歴史となっていきますが、聖書の語る歴史は、指導者、やがては王の家系における世代間継承の有り様と絡んで織りなされていくようです。その中で、人の「老い」にもしっかりと目を注いでいるところが重要です。聖書の世界において「老い」や「高齢」、「世代」は大事な視点のようです。
新約聖書に飛びます。イエスの誕生をめぐるルカ福音書の語るエピソードのうちに、記憶に残る、実際に有名な「高齢者」が登場します。祭司ザカリアとその妻エリサベトです。「彼らには子供がなく、二人とも既に年をとっていた」(ルカ1・7)とあります。そのザカリアに天使が現れて、洗礼者ヨハネの誕生を予告するのですが(1・13-17)、それに対する返答は、アブラハムとサラの物語と酷似しています。そして、洗礼者ヨハネとなる子を身ごもるエリサベトとイエスとなる子を身ごもるマリアとの邂逅(ルカ1・39-45)は、ルツ記のナオミとルツをも想起させつつ、もっとも喜ばしく、美しい場面の一つとして、絵画的にも多くのインスピレーションを与えています。
さて、ルカ福音書が伝えるところ、律法に定められている産後の清めの期間が過ぎたとき、ヨセフとマリアは、その子(イエス)を主に献げるためにエルサレムの神殿に行きます(ルカ2・22)。そのときエルサレムにシメオンという信仰のあつい人がいました。とくに高齢とは書かれていませんが、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」(2・26)と語られていて、相当高齢であることが暗示されます。
このシメオンが幼子イエスを抱いて、神を賛美していう言葉も同じくそれを暗示します。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」(2・29-30)。また、そこでは、84歳のアンナという神殿に仕える女預言者も幼子イエスに近づいてきて、神を賛美し、幼子のことを人々に話したと語られています(2・36-38)。この神殿奉献の場面もまた、よく画題になります。幼子を中心に、(向かって左に)ヨセフ、マリアと(右に)シメオン、アンナがシンメトリックに描かれることもしばしばです(図2は、ドゥッチオが描く神殿奉献の図)。
ルカ福音書によれば、高齢者である彼らこそが、最初に救いの恵み、その福音を受けた人々であり、最初に宣教者になっていく人です。しばしば、貧しい人のための福音書、あるいは女性たちのための福音書ともいわれるルカ福音書ですが、その意味では、高齢者のための福音書でもあるといえるでしょう。その中でイエスは、そして聖霊は、まさしく世代間の交わりと一致を生み出す源です。