P.Y.I.
祖父母の存在と自分との関係性ということをこれまで主題として考えたことがありませんでした。今回は大事な機会が与えられたと思っています。私自身にとって、ある意味でいつもついて回り、ずっと影響を受けている存在である父方の祖父のことを綴ってみようと思います。
祖父K男は、自分が3歳足らずのときに亡くなっているので、実際にしっかりと会った記憶も話した記憶もありません。うっすらと当時の祖父の家の囲炉に向かって座っているその背中を見たような、あやふやな記憶が残っているだけです。あやふやではあってもとても印象深い光景で、いつまでも心にあるのですから、それ自体は大切なのです。
その四人息子の長男である父の家、つまり私の実家の仏壇には、その祖父の位牌があり、父は毎朝その前で挨拶の礼をするのが習慣でした。それを欠かすことがなかっただけでも、父の崇敬心の篤さを感じます。祖父の肖像写真がいつも掲げられていたわけではないですが、すぐ出して見られるようにはなっており、直接見た覚えのない祖父の存在は、そのような形で、いつも我が家にはあり、その周りで、自分は育てられていました。
少年時代から青年時代に移り行く中学生頃のこと、なににもまして、祖父K男の存在を深く知らしめる出来事がありました。家族が新居に移ることになり、自分の部屋の隣に小さな書庫が設置され、そこに祖父が残した日記帳が収められることになったのです。祖父K男は1896年(明治29年)8月4日生まれの人ですが、1912年(明治45年、7月30日から大正元年)1月から日記を書き始め、1957年(昭和32年)8月3日(満61歳を迎える前日)に亡くなる数週間前まで、欠かすことなく日記を書き続けた人でした(写真はその晩年の1952年から1957年までの日記帳。これらも70年前のものということになる)。その46年間の日記が自分の部屋の隣に現れたことは、小さくない衝撃でした。
自分自身、自分の将来とともに、そのルーツに興味を持ち始める年頃。直接見たことのない祖父の存在は日記に綴られた祖父の生涯、家族の歴史、そして日本・世界の大正から戦後にかけての世相の記録として出会われることになったのです。
全般的に字が読みにくく、内容は捉えがたい日記でしたが、やがて高校時代には、自分が生まれたころの記述、日本歴史上の大事件、1936年の二・二六事件、1941年の開戦、1945年の終戦に関する記述など、主だった出来事のところを探り読みするようになりました。教科書や年表で学んでいく日本の歴史に対して、そのように、自分自身と家族の歴史として実存的に接することができるようになったのです。
祖父は若いころには海外渡航歴があり、また本州中部地方から北海道に大決心をもって移住してきたフロンティアでもありました。また宗教にも深い関心をもっていたというところもあります。治療師でもあり、宗教家でもあったと聞いています。その人間的な生涯の詳細は、叔父(父の末弟)が晩年、このK男の日記を読解し、主だったところをワープロで清書し、その伝記のようなものを手作りのワープロ文集として作成してくれたおかげで、今は概略を把握することができるようになっています。
その祖父K男の人間としての生涯を自分自身まだ深く把握するには至っていません。ただ、その謹厳な性格、律儀で几帳面な性格は15歳から欠かさず日記を書き続けたという“偉業”からもわかりますし、海外渡航や北海道移住など、フロンティア精神に富んでいたこと、そして、宗教への志向性という、生涯の太い枠組みは、それだけで、自分の人生形成にとっての指針であったように思います。見たことのない祖父の残された日記はまさしくテスタメントであり、バイブルのようでした。
今、カトリックのキリスト者である自分として、こういう感慨をもつことが少し憚られますが、まちがいなく、祖父は少年時代の自分にとって神でした。少なくとも神のごとき存在だったといえます。自分の人生を内的に突き動かすものをきちんと方向づけてくれるような、祖父の面影が放つ影響力は、のちに父である神やキリスト、そして聖書というものに出会うための経路となってくれていたことは確かです。
一切、感情的なものは湧きませんが、少年時代の神だったと思うとき、祖父の存在、その長男である亡き父の存在、そして、自分の存在を、もっと大きく深い地平から見つめ直すことができるように感じています。今、実家処分に向けての片づけの結果、祖父の日記全46冊は私の自宅に運ばれてきています。100年余りのファミリーヒストリー、そして日本の歴史との本格的な再会はこれからです。