山田真人
前回は、慈善事業の取り組みが単なる自己完結の活動ではなく、他者に向けて広がっていくための実践の土台が、イエスを基準とした識別にあることを考えてきました。その中で、ボランティアの持つ他者性を考察しました。今回は、ボランティアという活動がどのように動機付けされることが、特に教会やカトリック学校、さらにはあらゆる団体で必要とされるのかについて、その歴史と私たちの信仰を具体的な形で支える秘跡について考察しながら、考えていきます。
ボランティアの辞書的な意味としては、「自分から進んで社会事業などに参加する人」(『岩波国語辞典 第五版』1994年)とあります。その後時代が進むと、「自由意思を持って社会事業、災害時の救援などのために無報酬で働く人、こと」(『新明解国語辞典 第五版』1997年)という具体的な意味も定義として入るようになります。この中では1995年の阪神淡路大震災の影響が指摘され、天災という多くの人々に共通の課題を投げかける出来事により、共同体意識が高まったことも考えられます。その証拠に、1995年にNPO法も制定され、2011年東日本大震災後の2016年に改定もされています。英語でも「志願者、有志」の意味となり、日本語よりも具体的な贈与の性格を表す定義があり、「法律の任意行為者、不動産の無償譲渡者、自生植物」などの意味もあります。(『小学館プログレッシブ英和中辞典』1998年)こう考えていくと、ボランティアやNPOの法整備は、自己の自由意志性もありながら、社会の要請の中で自らが生きていくために必要な他者性とも言えます。
次に、哲学の思想から、ボランティアについて考えてみたいと思います。ジャン=リュック・マリオンは、「『私』が『存在』して他者を愛するのではなく、他者を愛することを通して自分が『私』であることや自分が『存在』していることを自覚するのである」と述べていて、人間関係の根本は愛であるとしています。(『贈与論』、岩野卓司訳、青土社、2019年)そう考えると、ボランティアを通して他者と繋がることは、対象者を助けるだけではなく、自分の人間的な弱さを表現していることになるのかもしれません。
神学では、『秘跡による救いの営みにおける信仰と諸秘跡の相互関係性』(2020年、教皇庁教理庁国際神学委員会)において、洗礼や堅信などの秘跡による教会への招きは、神の人間への自己贈与の形と考えています。(『カトリック教会は刷新できるか』、阿部仲麻呂、田中昇編。阿部仲麻呂、髙久充、田中昇訳。教友社、2023年)この自己贈与に応えることができるように、神は人間を創ったという解釈がされています。
イエス・キリストが人間としてこの世に生まれ、自分の役割を全うすることで自らを存在を確立しようとしたからこそ、十字架に架かったという解釈もできると思います。こう考えると、イエスの姿がとても親しみやすく感じられ、ボランティアの究極の姿はイエスとその姿を思い起こすためにある秘跡に見られるとも考えられます。
最後に、このボランティアの姿と具体的な学校やNPOでの実践について考えます。NPOはこの人間としての存在の確立に当たるものを、「ミッション」(団体の存在意義)として持っています。NPOに限らずあらゆる組織が、活動の中で他者に向かう中でその存在意義を確かめています。学校教育の現場では、クラブ活動、探究学習、様々な科目の学習の中で、他者が起こした歴史的出来事、生き様、理論などに多く触れていきます。この数を増やし、できるだけ多くの他者との出会いを経験し、自分がどのようにその対象に向かっていくのか、贈与の経験をするかを確かめ続けることで、自らの「ミッション」が分かってくるのではないかと思います。こうした体験ができる場所が、学校だけではなく、教会も選択肢に入ることができれば、その秘跡性に出会う経験は大いにあると思います。
山田 真人(やまだ・まこと)
NPO法人せいぼ理事長。
英国企業Mobell Communications Limited所属。
2018年から寄付型コーヒーサイトWarm Hearts Coffee Clubを開始し、2020年より運営パートナーとしてカトリック学校との提携を実施。
2020年からは教皇庁いのち・信徒・家庭省のInternational Youth Advisary Bodyの一員として活動。