山田真人
前回は、チャリティとフィランソロピーの違いを考えることで、真に慈善を実施することの難しさと同時に、イエス・キリストを識別の基準にすることで、一つの識別の契機となることに触れました。今回の記事ではイエス像が史的イエスの研究の進展も伴い、具体的に社会で働く私たちの姿勢に影響を与えていることに触れ、チャリティ活動をしていく上で信仰はどのような役割を果たすのかについて、考えていければと思います。
まず、史的イエスという考え方とそれに伴う教会論について考えてみたいと思います。イエスが救い主であるという信仰告白にもなる「イエス・キリスト」という表現は、初代教会から受け継がれ、その目に見える形の一つがミサという食事の場になります。パウロはイエスが頭で私たちがその体を構成するとも言っていて、私たちが一つの機能を持っていて、具体的にそれが繋がっていると意識することを重視しています。こうした考え方から、イエスが具体的にこの世を生きた人間としても考えられ、史的存在として語られるようになりました。その結果、教会も「キリストの体」として表現されるようになり、人間の肉を持って実際に生きていたイエスが救い主であると同時に、私たちにとって身近な人間として、模範にできる存在なのだと思います。
こうした生きる上での具体的な模範としてイエスと出会うという意味での理解を深めてくれる研究者として、『イエス研究史‐古代から現代まで』(大貫 隆、佐藤 研編、日本基督教団出版局、1998年)の中では、ジェームズ・M・ロビンソンという人が紹介されています。彼はイエスの言葉と行為が「過去の出来事の証言としても現在生起していることの経験としても、人を決断の前に立たせる」ものだと述べています。私たちが何かを実践しようと決断する時、その瞬間に具体的に過去に生きていたイエスと繫がり、現在の行動を見ることになるのだと思います。この働きが、信仰を持った上での識別になるのだと思います。
しかし、私たち人間がこうしたイエスとの出会いと識別を日々意識できるかというと、かなり困難だと思います。初代教会の時代、アウグスティヌスは若い頃は放蕩をしていたともされていますが、その後の回心の経験は現在もカトリックの最も重要な教義の一つとなる原罪論、赦しの概念にも繋がります。教会にはこうした原罪を持っている人間であってもその人々が集まり、信仰によって識別ができる自分のアイデンティティを確認するために、慈善活動、つまりチャリティがあるのかもしれません。
このように考えると、チャリティのような実践活動は、自分の弱さを自覚することと同義にもなります。『ボランティア-もうひとつの情報社会』(金子郁容著、岩波新書、1992年)の中では、ボランティアとは以下のようなものと定義しています。
以上のように、ボランティアは他者の苦しみがまるで自分事のように感じられ、その対象者に対して繋がろうとする試みです。そして、ボランティアとはそもそも「志願兵、有志者、篤志家」(『新英和大辞典・第五版』)という意味であり、自発性が中心の意味です。これがボランティアの本質にあるとすると、英語で言うチャリティで意識される自発的な慈善行為と繋がる点があります。しかし、その両者で意識されるのは、共通して人間の弱さと繫がりを求める人間の姿です。
最後に、こうした繫がりを考えることにもなった出来事を、一つ紹介できればと思います。現在、学校法人南山学園の聖園女学院中学・高等学校と協力し、マラウイの支援のプロジェクトとしてマラウイ産コーヒーと紅茶の販売をしています。その中で同じく南山学園が運営する南山大学の学生とも繋がり、現在難民の支援に売り上げの一部が繋がるコーヒーの販売も進めています。聖園女学院中学・高等学校から始まった活動が、他の南山学園の法人の学生にも伝播され、広がっていくことは、小人数ではできないことを多くの人と達成できる大きな働きと同時に、私たちが繫がりを常に重視していることも意識させてくれます。
山田 真人(やまだ・まこと)
NPO法人せいぼ理事長。
英国企業Mobell Communications Limited所属。
2018年から寄付型コーヒーサイトWarm Hearts Coffee Clubを開始し、2020年より運営パートナーとしてカトリック学校との提携を実施。
2020年からは教皇庁いのち・信徒・家庭省のInternational Youth Advisary Bodyの一員として活動。