Doing Charity by Doing Business(14)


山田真人

前回は、チャリティとフィランソロピーという言葉を用いて、現在学校教育などで取り入れられているフェアトレード学習について触れました。そして、何がフェアと言えるのかは、識別の作業が必要であるとも述べました。今回は、この識別において必要な価値観について、チャリティとフィランソロピーの違いに触れながら、考えていければと思います。

まず、チャリティはどのような言葉で定義をされているか調べると「貧しい人や病気の人、困っている人を助けるために行う寛大な行動または募金活動」(Cambridge Dictionary Online)と一般的に出てきます。これを見ると行為としての側面が強いと思います。しかし、よくある批判としては、短期的で心の衝動に過ぎず、計画性がないという点です。その反動として対照的に語られたのが、フィランソロピーという言葉です。これはより計画性があり社会全体にマクロに影響を与えるような行動を指します。現在のSDGsや教育現場のフェアトレードの流行にも繋がってくる言葉が、このフィランソロピーとも言えます。

「知識を愛に変える」をテーマに行った白百合女子大学とNPO法人聖母の活動

ここで、フィランソロピーを歴史の中の具体例から深掘りしてみます。国立民族博物館教授の出口正之さんは、『共感革命 - フィランソロピーは進化する』の中で、古代ギリシャのプラトンが、最初のフィランソロピーを実施したとしています。その具体例としては、彼の個人資産で、皆が算術、幾何、天文学、哲学などを学ぶことができるアカデメイアを作ったことを挙げています。

出口教授はさらに、日本のフィランソロピーのはじまりを、奈良時代の聖徳太子による四天王寺の建設としています。また、行基という仏教僧は、橋や池などの土木事業を実施するために、勧進(寄付)を募っていました。

さらに、明治時代には、石井十次という教育者が、海外のルソー、エミール、ペスタロッチなどの影響で、日本の孤児たちを救うために学校を建て、機械の使い方などの実用的なことも教え、社会進出のための職業訓練所として、孤児院を建てました。こうした活動もあり、日本は海外に少々遅れていますが、1961年には、国民皆保険制度ができ、さらには皆年金の制度も固まりました。

このように考えていくと、日本では海外の影響を受けてフィランソロピーの方が信憑性を持って使われているように思います。そんな中で、教会がチャリティという言葉を使う意味、カトリック学校でチャリティ活動に触れる意味はなんでしょうか。聖書の中でchariyに即する言葉を調べようとして、 “Expository Dictionary of New Testament Words”(W.E.Vine)を引くと、loveの項目を見るように誘導されます。したがって、聖書学という一つのアプローチからですが、少なくともキリスト教の中ではチャリティは愛の概念になります。さらに、このloveの項目の中の一つに、フィランソロピーの語源になるギリシャ語のPhileoがあります。

上記のような簡単な分析ですが、おそらくキリスト教においては、チャリティとフィランソロピーは区別せず、双方ともlove(愛)から始まると考えられると思います。聖書の用例を見ていくと、イエスを通した体験によって感じられたり、それによって信仰に入った人が他者に見せる態度に現れたりするのが、チャリティになります。例えば、「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって私たちが生きるようになるためです。ここの神の愛が私たちの内に示されました。」(ヨハネの第一の手紙4:9)とあります。

サレジオ学院から企業がNPOを支援する理由について聞かれ答えて下さったアタカ通商株式会社社長の荒木様(右)

最後に、上記のような一般的なフィランソロピーのとらえ方とキリスト教が考えるフィランソロピーの違いについて考察していきます。一般的なフィランソロピーの用法では、事業として具体的な計画性がある例が多いです。しかし、その活動における価値観や判断基準は明確に一つと決めているわけではありません。一方で、キリスト教のフィランソロピーの考え方は、チャリティ(愛)と同質であり、イエス・キリストという具体的な価値基準があります。これが、識別をする上でとても重要な価値基準になっているのだと思います。

このように考えると、NPOやその他の非営利組織、いわゆるチャリティ団体がカトリック学校や教会で働くとき、その活動の識別の基準がイエス・キリストでなければいけないということになります。その活動の中で識別の力を深めていくことが、識別の高い能力に繋がってくるのではないかと考えています。

日々の私たちの仕事が、人間の目から見て良い活動なのかそうでないのかは、判断がつかないことがほとんどです。そんな時に最後にはっきりとした価値基準があった上で、識別できることは、とても重要だと思います。それを支えていく共同体が、教会であることが求められていると感じます。次回は、識別の基準をイエス・キリストにするという点について、具体的に考えていければと思います。

 

山田 真人(やまだ・まこと)
NPO法人せいぼ理事長。
英国企業Mobell Communications Limited所属。
2018年から寄付型コーヒーサイトWarm Hearts Coffee Clubを開始し、2020年より運営パートナーとしてカトリック学校との提携を実施。
2020年からは教皇庁いのち・信徒・家庭省のInternational Youth Advisary Bodyの一員として活動。

 


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