愛である神 第一ヨハネ4章16-17節


佐藤真理子

私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛の内に留まる人は神の内に留まり、神もその人の内に留まっておられます。

(第一ヨハネ4章16-17節)

キリスト教とは何でしょうか。聖書には神は愛であることが明記されています。愛である神を信じることがキリスト者です。つまり、キリスト教とは愛そのものなのです。神の愛を信じ、その愛によって生きることがキリストを信じる者の生き方です。キリスト者であることに、他のものは一切必要ありません。愛はキリスト教の根幹であり、全てなのです。今回は、神の愛について聖書から読み解いていきたいと思います。

旧約に明記されている多くの律法は愛に集約できます。神の律法は神の愛を他者に反映させることなのです。愛は律法の根底にあり、律法の要求をはるかに超えるものです。

愛を必要としない人はいません。人の最大の必要は愛です。聖書によれば、愛は神なのです。神は人を、神の命によって生き、その愛によって生きるよう作られました。人の心には神のかたちの穴が、すなわち、愛によってのみ埋めることのできる穴が開いているです。

神のご性質を完全にあらわしたのがイエス・キリストです。

イエス様がどのような方かを知ると、私たちは神様がどのような方なのかを知ることができます。イエス様は、神の在り方を捨てて人にいのちを与えるために、自分のいのちを捨てました。

私たちが他者を愛するようになることとは、私たちが神のように変えられていくことです。第一コリント書の13章にはつぎのみことばがあります。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人のした悪を心に留めず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。

(第一コリント13:4-7)

これは、神を主語に変えて読むこともできます。愛である神はこれらの性質を持つからです。

神は寛容であり、神は親切です。また人をねたみません。神は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人のした悪を心に留めず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。

ここに示されているのは、自分本位でない愛、すなわち自己を無にして与える愛です。

神様は99匹の羊を残して失われた一匹を熱心に求める羊飼いであり、私たちの思いをはるかに超えた最も良い物を与えようとする親であり、私たちを心から祝福したいと思っている方なのです。また、過去現在未来の罪をイエス様の血で取り除き、もはや私たちの不義を思い出さないと約束された方でもあります。

私たちは自分たちが信じている神様のように振る舞います。それゆえに、正しい神様への見方を持つようにすることはとても大切です。

神様が私たちの与える愛のモデルは次の聖書箇所に書かれています。

「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

(マタイ5:43-44)

神様は、放蕩息子の父親のように、息子を責めず、彼が立ち返ったことを心から喜び両手を広げて駆け寄ってきてくださる方なのです。

神ご自身が、はじめに敵を愛しました。キリストは十字架上で自身を殺した人のために祈り、自分を侮辱する私たち人間のためにいのちを捨てました。まさしく、第一コリント書13章の愛のそのままの歩みをしたのです。

イエス様は、姦淫の罪のある女性が人々に打ち殺されようとしていたとき、「罪を犯したことのない者がこの女に石を投げなさい。」と語りました。すると、一人また一人と人々は立ち去り、最後にその女性とイエス様だけが残りました。

イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」彼女は言った。「はい、主よ、だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」

(ヨハネ8:10-11)

イエス様は唯一の罪のない人間です。つまり、唯一この女性に石を投げる資格のある人でした。しかし、イエス様がこの女性に石を投げることはありませんでした。つまり、人を裁く権利のある神様は、人を裁かない方だということです。

私たち自身が、神からそのように扱われているのです。キリストは神の愛そのものが人の形になって表れた方なのです。怒りや裁きではなく、神の優しさが、人を悔い改めに導きます。愛だけが人を内側から変えるのです。第一ペテロ4章8節には、「愛は多くの罪を覆う」という言葉があります。それが形となったものが十字架なのです。私たちを救うため神ご自身が犠牲となって罪を背負い、私たちが責められることのないものとされたのです。十字架は神様の愛の現れなのです。十字架は、正しさと同時に愛である方を体現しているのです。

人は多く赦されたことが分かると多く愛せるようになります。神様の愛は人知をはるかに超える広大なものです。

愛は私たちの人生のすべてを造りかえるものです。愛以外のものが何かの動機となると、そこに歪が起こってしまいます。教会も例外ではありません。愛が動機となれば愛は自然と広がり、それが神の国を創っていきます。神様は私たちの親です。私たちは親から受けたものを他者に反映させていくのです。

愛の源である神様はこの上なく良い方です。それを絶対的に信頼することが信仰です。聖書には「この方に信頼する者は失望させられない」とあります。すべてを益とする神を信じ、神の愛を信じ、歩んでいきましょう。

 

佐藤真理子(さとう・まりこ)
東洋福音教団所属。
上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
ホームページ:Faith Hope Love

 


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

2 × one =