森 裕行(縄文小説家)
16.柄鏡型敷石住居と「わび・さび」
緑が力を増してきた2024年5月14日の夕方。多摩センター駅近くの都埋文の縄文の森を尋ねた。西から苑内に入るとすぐに柄鏡形敷石住居が迎えてくれる。何か茶室に向かうような清涼感が湧いてくる。茶室であれば躙(にじり)口より入るが、敷石住居も結構狭い入り口を少し高くなっている石をまたいで柄の部分に入る。
平らかに整えられた敷石の上を靴で入っていくが当時は、履物を脱いで裸足で入ったのかもしれない。竪穴式住居やこの柄鏡形敷石住居址では、敷石だけでなく敷物が敷いてあった可能性が高い。村田文夫氏の「縄文のムラと住まい」(慶友社 2006 P18)によれば、後期初頭の長野県百駄刈遺跡一号住居の広い範囲で板状の炭化材が発見されている。敷板住居だったのかもしれない。また、私の家の近くの八王子市由木東市民センターそばの、多摩ニュータウン64遺跡でも柄鏡形敷石住居が見つかっているが、網代状の炭化物が広い範囲で見つかっている。
地べたの上で直接生活するには、湿気や害虫等の問題から何かを敷いて暮らすのは自然なことだ。
さて、中に入ると真っ暗だが、懐中電灯で照らすと中央には炉があり、床面は綺麗に平らな石がうまく敷かれ、また壁面に沿って石が立ちあがるように縁石が、丁寧に張り巡らせてあるのに驚く。近くの川から選んでもってきた石だろうが、都合の良いように半裁するなど膨大な時間と労力をかけ、職人技で作ったのだろうが、土を掘るにも硬い木の棒や打製石斧しかない時代なので、ただごとではない気配を感じてしまう。この展示は、大栗川沿いの八王子市堀之内芝原公園そばの、多摩ニュータウン796遺跡から移設された住居址で、加曾利E4式の中期末の時代で約4000年前にあたる。
さて、柄鏡形住居址は中部高地と西関東に限ると縄文中期末から後期前半を中心に、住居址としてはポピュラーである。何故このような住居が登場したかは、多くの専門家が挑まれている大問題だが、前回お話しした環状集落、双分制などの代表的な中期の属性が崩れていく時期であり、社会システムの変化という意味で総合的にとらえなければならない。この大きな変化が生じたきっかけはいくつかの理由が挙げられているが、一つは環境の変化があるようだ。「縄文時代中期後半から晩期初頭では、山梨県東部・静岡県東部・神奈川県西部のテフラの検出例が顕著である。」(富士山噴火の考古学 富士山考古学研究会編 2020 301P)。つまり火山の噴火やそれに伴う自然災害などで、生活の維持で大きな影響を受けていたに違いない。しかし、その中にあっても、祖先は私たちに命のバトンを渡してくれた。U先生の生き甲斐の心理学では、そのカギとして、以前「8.災害の中でも命を紡ぐ」で述べたが、生き甲斐を重要視している。
つまり、「何のために生きるか?」といった哲学や宗教の分野である。この問いに応えられ、大いなるものを目指す自己実現の道を歩むことで、厳しい現実が受け入れられ歩みだすことができるのだろう。これは今も昔も同じではないだろうか。
さて、石というのは宗教学ではどのように考えられているのだろうか。宗教学・民俗学のミルチャ・エリアーデ(1907-1986)は「人は石の大きさ、固さ、形、色において、人間が属している俗世界とは別の世界に属する実在、力に遭遇するのである。」(豊穣と再生 エリアーデ著作集② せりか書房 1974)としている。日本神話にはコナハナサクヤ姫とイワナガ姫の話が出てくるが、この神話素は旧石器時代に通じるほど古いようだが、愛らしい花より死を乗り越える石(岩)を思い起こし、生の本質を見抜いていたかもしれない。現代でも龍安寺の石庭が人気あるのも、我々のこころが古層の文化とも関係する証と考えられないだろうか。
さらに、石の素材を使った敷石住居の中には、縄文中期の勝坂・井戸尻期に土偶や土器に現れた地母神イザナミのイメージも伝わっているようである。次は胎児のイメージの図像であるが、近くでは多摩境の田端遺跡(田端積石遺構でない)に敷石住居があり、先日玉川学園構内で移設された展示を見学させていただいた。
この敷石住居址は半分が調査外で欠損しているが、次の樋口誠二氏の胎児の図像に似ている。
特に以前訪問したヒスイの里の青海町(現在は糸魚川市)の配石遺構に似ていて、田中基氏も指摘している。
柄鏡形敷石住居の大半は全面敷石されているケースが多いようであるが、一部欠損が故意に行われていて、それが意味を持つ図像で土器や土偶の図像と繋がりがあることを樋口誠司氏が「柄鏡形住居の世界観」(山麓考古18 1995)で指摘している。心理学的にはカール・ロジャースのパースナリティ理論を出すまでもなく、全ての行為には何等かの意図が隠され、文様なり形には必ず意味があるという図像学の立場に敬意を表する。ただ、敷石は大変な労力を経て配置されるため、廃屋時に一部抜かれ再利用されたりする。さらに、後世の攪乱や災害の影響もあり、図像解釈のハードルは高いようだ。
また、図像の解釈については、大和岩男氏の「神々の考古学」(大和書房 1998 70P)に、福岡県吉井町の珍敷塚古墳の装飾壁画が、エジプトのセンネフェル墓の壁画に似ているという指摘がある。この「舟と太陽」も地母神に関わりがありそうであり、興味をそそる。
ところで、考古造形研究所代表の森山哲和氏は恋ヶ窪東5号住居の炉と直結する敷石を発掘時に造形保存されたが、その炉と繋がる敷石の部分を茶会の道具として使われている。
4000年前の敷石住居と千利休(1522-1592)と接点があるのかと驚くが、お茶でのおもてなしと4000年前の炉を中心にした敷石の造形は繋がるようなのである。そういえば安西二郎氏の「新版 茶道の心理学」(淡交社 1995)では、躙口と体内復帰願望との関係で茶室を論じているが、母性的な敷石住居と茶室は深層で繋がっているのかもしれない。
実物の型を取る造形保存では、われわれが見る表面だけでなく、敷石の裏側まで検討される。前回の内と外のように、敷石住居は見える表面だけでなく内の解釈も重要なのである。どのように意図し石を組み合わせ、想いを実現したかは裏から見て初めてわかるようだ。
母性的な敷石住居址。その原型は「わび」の高度な倫理性や宗教性と通じるのかもしれない。