大井靖子(カトリック調布教会)
貪るように聴いた愛と自由の福音
1960年から1990年の30年間、ほぼ毎年のようにロンドンのご自分の主教区からロシアを訪れ、愛する故国の霊性の復活を願い、時にはKGB*①に監視されながらも、ソビエト社会主義時代のモスクワやレニングラードなどの聖堂で奉神礼をつとめ、説教を続けてこられたロシア正教の司祭がおられた。スーロジ府主教アントニー*②である。
1990年10月、ゴルバチョフ大統領が「良心の自由と宗教団体に関する法律」に署名し、信教の自由が法的に認められるようになると、それを待っておられたかのように、それ以降、アントニー府主教はロシアにいらっしゃることはなかった。その年、府主教はすでに76歳の高齢に達しておられた。
「アントニー府主教はロシアの地で、ご自分を捧げ尽くし、与え尽くし、ロシアを去るときはいつも疲れきっていました。ロシアでは信者たちが、ごく最近まで抑圧され、権利を奪われていたことをよく覚えており、アントニー府主教が話してくださる愛と自由の福音に貪るように聴き入っていました。」
これは、『すべてにうち勝つ愛』*③というタイトルでまとめられたアントニー府主教の、モスクワでの説教集に添えられた出版者の言葉である。
ロシア軍によるウクライナ侵攻が始まって、2年3か月がたつというのに、平和へ向かう兆しが見えない今、わたしはアントニー府主教の『すべてにうち勝つ愛』を読み返している。そもそも、わたしがアントニー府主教の名前に初めて接したのは、今から9年前、「わたしたち以外に、これを言う人がいない:ペテルブルグの正教徒、ウクライナの市民に戦争の赦しを乞う」という独立系メディア「ラジオ・スヴァボーダ」に掲載された記事を通してだった*④。それがアントニー府主教との最初の出会いであり、わたしの信仰生活にとって大切な、かけがえのない出会いとなった。
以下、ご紹介するのは『すべてにうち勝つ愛』の最初に収められているモスクワ、聖ニコライ聖堂(ハモヴニキ)での説教(1966年11月30日)の、その一部である。
すべてにうち勝つ愛(アントニー府主教の説教から)
わたしたちはみな、同じことを祈っています。喜びが地上にもたらされるように祈っています。いつの時代も、わたしたちには、イザヤが主の名において語った言葉「慰めよ、わが民を慰めよ!」(イザヤ書40・1)が聞こえます。
神は、現代の世界の至るところに、冷え切った愛の悲しみ、引き裂かれた家族の悲しみ、戦争の悲しみ、憎しみの悲しみ…多くの、多くの悲しみが襲っていることをご存じです。それと同時に、神はわたしたちに落胆せずに、さらに明るく、さらに燃える心で希望をもつよう呼びかけています。聖ワシーリイ・ヴェリーキー*⑤の聖体礼儀の言葉に「善は善のままに留め、悪はあなたの善意によって善にしてください」があります。わたしたちが生きている世界には善人も悪人もいます。主よ、どうぞ、わたしたちが善人の中で、キリストに従う人びとの中で、また、主が「わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました」(ヨハネ17:18)とおっしゃった人びとの中で生きることができますように。
「(神の)力は弱さの中でこそ十分に発揮されます」(2コリント12:9)、人間の力は常に大きな力にぶつかると砕けてしまいます。ただ、鳩の素直さと、なにものにも打ち負かされることがない愛、それは使徒パウロが言ったように、好きな人間を選び取り、嫌いな人間を捨てるような片寄った愛ではなく、神の太陽のように善人も悪人も照らす愛です。なぜなら、神の太陽は、悪人がまっ暗闇で滅びることなく、神の国の子どもになるよう望んでいるからです。
コベントリー市の聖堂は、第二次世界大戦のとき、ドイツ軍の空爆で破壊されましたが、聖堂の残骸で祭壇を組み立て、鉄のかけらで、「主よ、彼らをお赦しください」と記した十字架を立てました。ごく普通の信仰をもった人たちが「お赦しください」 と言うことができたのは、信仰が火と鉄で鍛えられ、戦火の苦しみの中で、憎しみは 憎しみによって絶つことはできない、「人の怒りは神の義を実現しない」(ヤコブ1 :20)、「愛は多くの罪を覆い」(1ペトロ4:8)、すべてに完全にうち勝つこと を知ったからです。
そうです、互いに愛しましょう。初代教会のキリスト教徒は、周囲の人びとに「あん なに愛し合っているなんて、どういう人たちだろう?」と驚かれました。わたしたち も周囲の人に「わたしはなんて貧しいのだろう! あの人たちの共同体にも入れず、 わたしはひとりぼっちだ! 共同体に入って、あの人たちのような優しさと愛に包ま れたい! キリストに従う者になりたい!」と言われるような共同体になりましょう。 初代教会は世界を魅了し、キリストはひとりひとりの魂を魅了しました。信者は愛の うちに成長し、信者でない人は愛に目覚めます。
かつて、わたしにとって愛とは、神の国とキリストの教会の、わたしの知らない未知 の啓示でした。あるとき、だれに対しても愛情を惜しみなくそそぐ男性に出会い、こ の人は、どうしてこんなに愛情深いのか理解できませんでした。わたしたちがいい人 間であるとか、彼に好意的であるとか、そんなことは関係なしに、なぜ、彼はわたし たちを愛しているのだろう? なぜだろう?…
そのときはわからなかったのですが、福音書をはじめて読んだときにわかりました。自分の方から相手にはたらきかけ、攻撃や迫害もすべてを受け入れ、それでも喜ぶと いう、この愛は、わたしたちがキリストのような犠牲を行うとき、わたしたちに敵対 する人を神の名において赦し、救いの祝福を授ける権威をいただくのです。なんとす ばらしい力、そして喜びでしょう!
一致のあるところに愛が与えられます。なによりも一致の中に、愛を保ちましょう。不和のあるところに愛はありません。分裂のあるところに愛はありません。それは十 字架とみことばを蹂躙することです。困難が伴おうと、キリストの名において不和を 克服し、キリストの名において互いに結びついている人びとのあいだに、キリストと 聖霊の勝利があり、わたしたちの生活はキリストと共に神のうちに守られます。わた したちが愛し、一致を保ち、どんなことにも引き裂かれず、わたしたちの心の中で神 が勝利し、ただ愛だけになるとはどういうことなのか、それを世界に示しましょう。
喜びと祈りの「信仰と光」
アントニー府主教によって、ロシアの大地に蒔かれた愛と自由の福音の種は、その後、さまざまな形で実を結んでいる。そのひとつは、共同体「信仰と光」である*⑥。知的ハンディをもつ人びとと、その家族や友人が集い、出会いと交わりを大切にする「信仰と光」は1971年、フランスでジャン・バニエとマリー=エレン・マチューによって創設され、現在、約78か国に1500の共同体がある。
ロシアには現在、それぞれ個性的で楽しい名前をもつ14の共同体-「風にゆらめくキャンドル」、「フォンタンカ」、「金曜日」、「出会い」、「目を覚まして歌いなさい」、「本当の友人たち」、「奇妙な人たち」、「豆粒」、「ひまわり」、「おちびちゃん」、「雨の子どもたち」、「小さな木」、「カメ」、「青空のもとで」が活動している。アントニー府主教は、ジャン・バニエ、ウラジーミル(アルヒーポフ)神父と共に、ロシアの「信仰と光」の霊性の拠りどころとなっている。
ロシア軍によるウクライナ侵攻が始まってからも、各地での「信仰と光」の活動はいつものように続けられ、ペテルブルグの「信仰と光」は2023年9月15、16日の2日間、創立20周年を祝った。
参加者のひとりは、「信仰と光」のウエブサイトに、「とても楽しい忘れられない祝日になりました。金曜日の夕方は、ネヴァ川を航行する遊覧船に乗り、フィンランド湾のすばらしい夕焼けを眺め、土曜日はペテルブルグの4つの共同体からの参加者と、モスクワとモスクワ周辺の共同体からゲストを迎え、いっしょにピャチゴルスク・ボゴロジツキー修道院でジミトリー・シーモノフ長司祭による聖体礼儀に与りました。
“わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である…”(ヨハネ15:5)―救い主のこの言葉が、わたしたちの祝日のテーマになりました。出会いに参加した、それぞれの人びとが、信仰と光での体験や感想や喜びを分かち合うことができました。たくさんの思い出話、歌、祈り、抱擁があり、お祝いは大成功でした」と感想を寄せている。
主よ、約束のとおり、わたしたちに聖霊を送り、
戦争と争いでいっぱいの、この世界で、
わたしたちを平和と一致の創り手にしてください。
この世で十字架につけられた人びとといっしょに、
わたしたちが十字架の下に立つマリアさまと共に
いつも立つことができますように。マリアさまのように
わたしたちがあなたの復活の中で生きることができますように。
(「信仰と光」の祈りより)
ウクライナとロシアに1日も早い平和が訪れることを願い、「信仰と光」の祈りを深く味わいながら、この連載を閉じることにします。ありがとうございました。
2024年聖母月
【註】
*① 国家保安委員会
*② 1914~2003 俗名アンドレイ・ブルーム。スイス、ローザンヌでロシアの外交官の家庭に生まれる。革命後、一家は亡命生活を送り、1923年、パリに落ち着く。パリ大学在学中、医学博士号を取得。1948年、司祭に叙聖。1950年からイギリスの正教会で奉職。1966年からモスクワ総主教庁スーロジ教区府
主教に。
*③ 出典『Проповеди,произнесенные в России 』(モスクワ・スーロジ府主教アントニー霊的遺産財団)
*④ 2014年のウクライナ紛争に反対するビデオメッセージ「ウクライナとの平和を求めるサンクトペテルブルグの正教徒」がYouTube で流されると、2日間で約15万回の再生回数を記録した。
*⑤ カイサリアの聖バシレイオス。4世紀の最も重要なキリスト教神学者のひとり。
*⑥ 以下「信仰と光」の資料は「вера и свет」ロシア語ウエブサイトより
【出典】
https://www.vera-i-svet.ru/whoweare
https://www.svoboda.org/a/26941536.html
https://azbyka.ru/otechnik/Antonij_Surozhskij/ljubov-vsepobezhdajushhaja/1_1