相手の「味」を伝える場―自分と他者への愛を育める学校


K・A

社会人になり、ミスやトラブルが続き苦しい思いをするときに、いつも見る夢がある。かつて中学校で所属していたバドミントン部の顧問にずっと叱られている夢だ。「成績が悪いから」「試合に出られないから」と大量のシャトルが飛んでくる。打ち返すことができない。その時に感じた「私はダメなんだ」という思いが胸を覆い、いつも額を通るべとついた汗で起きるのだ。

若い世代の価値観が大きく変化しつつあると言われて久しいが、やはり「テストの点数」や「学歴」は各個人についてまわる一つの価値だ。私が通っていた学校も大学進学率を上げることに非常に力を入れていて、私はそれをとても窮屈に感じていた。テストの点数が高い生徒が偏差値の高い大学に合格し、教師からの待遇が変化する場面を垣間見ると、とても残念な気持ちに襲われた。

私は高校で不登校を経験している。通えなかった理由を心では十分に分かっているようで、10年以上経った今でも言葉にできない。(この世は本当に「言葉」で説明したがるけれど、ほとんどは表明・形容できないことばかりだ。)そのため、成績は悪く「1」を取ってしまったことも度々ある。その都度「自分はダメな人間なんだ」と自責の念に駆られた。どれだけ頑張ってもテストの点数や偏差値で、自己存在価値が測られる。それが苦しかった。その時に、ついてしまった自分への悪い印象は深く心に刻印され、大人になった今でもそれが作用してしまうことがある。非常に多感な時期に、ある一定の制度を通じて個人の価値を測る傾向の強い日本の教育そのものに、今でも疑問を抱かざるを得ない。

しかし一方で、今でも自分の「心」をふと支える瞬間をくれた授業もあった。それは中学生の時に受けた授業で、「相手の良いところを見つけ、それを相手に伝えよう」というものだった。

「優しい」「明るい」「リーダーシップがある」…。そういった安直で手垢のついた言葉を伝えるのではない。「こういう時、あなたにこのように助けられたから、私はあなたのことをとても優しい人だと思っている」というように、具体的に相手の良いところを伝えるのだ。これには担任の先生も参加し、不思議と“クラスメイト”という枠を超え、たまたまご縁があって一緒のクラスになった同級生と素直に思いを伝えあえるとても貴重な機会だった。

この時に私はある友人から次のような言葉をもらった。「修学旅行の時に、バスの座席を決めるのに、ジャンケンで負けて落ち込んでいた時に『変わろうか?』と声を掛けてもらって優しいと思った」というものだった。ジャンケン一つで運命が変わってしまうような修学旅行もどうかな、と社会人になった今強く思う。しかし、そんな狭い世界の中で、何かできることはないかと自分なりに些細な努力をしていたところを見て「優しい」と言ってくれた存在がいたことは、とても嬉しかった。特別に誰かに気付かれたいとも思わないが、そうした一言をもらったことが時折、自分の精神的支柱になることがある。

その人自身をじっくり寧に真っすぐ見つめ合うことは、その人の実存にかかわってくると思う。何かを成し遂げるうえで自己肯定感が発揮され、自分を信じられるようになるから。その方が、本来の自分を愛し、生きやすくなると思うのだ。

「点数」や「偏差値」ももちろん学校や教育の中で重要な位置を占めている。しかし、それと同じくらいの力量で、その人にしかない「味」を互いに伝えあい、自分を知る機会が多い学校があるといいな、と思う。心が柔らかい学生時代の頃から、自分を受容する力をより育めれば、大人になってからかかわる他者とも、豊かな人間関係を構築できるのではないだろうか。

 


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